間抜け男として歌いに林へ行った。

 まず、リズムを覚えていないのでずれた。そこは気にしなかった。でも、乗り切れない原因だったかも。

 全編泣きで歌おうとした。rolling stones    paint it black.   抜けるまで歌いたかったけれど、79%だった。いまいちのような気がするけれど、今の自分としては精いっぱいだった。全体に泣いてうたった。そこはある程度成功した。
 これはこれで、このやり方は間違っていないと思う。ありだと思う。

 高音のサビで音が高くてうまく歌えない状態だった。それは昨日から今日まで変わらなかった。低い音では泣きがだいぶ入れられた。今の自分に対して、ごくろうさま。

追記:歌 / スーパーマンではなくミミズ・ニョロニョロとして

youtu.be



追記: 林で歌った。

 林で歌う大馬鹿者として行った。

 今日はよいところは少なかった。ある部分は成功した。

 rolling stones  paint it black をうたった。憎しみを込めようとかしたけれどどうにも不発。hmm の所を憎しみでやろうとしていたけれど、なぜか大の男の大人が大泣きするような歌い方になった。これが結構成功していた。うまく嵌(はま)っていた。

 不発の本編も、大泣きスタイルで歌えばよかったのかなあ。ちょっと今後悔。憎しみに固執していた。柔軟にやってもよかったかも。僕は頭ごなしに歌おうとするところが強いかも。
 
 今日は不発の歌と言うところで満足しようとした。今度成功しようとかではなく、不発だった歌自体に満足していこうという、限定失敗部分に満足を持とうという新たな距離感で事後処理した。



平成30年1月20日 土曜日

「スーパーマンではなくミミズ・ニョロニョロとして」




 ・太極拳をはじめませんか、王茂斌

を、3日目やった。身に付けようと思い、一動作のタイトル、例えば1.天地通行 気入湧泉 というように、準備運動ひとつに付きタイトルを紙に書きながらやった。

 この間の突っ立ってやるのに気が足底から入るというのは嘘だった。自然姿勢は自然を感じながら適度な緊張のもとリラックスして立つ、というのでやるらしい。さっきのタイトル・気入湧泉から気が関係して足底から入るイメージを持つらしい。今日は、1.天地通行だけやった。僕は大嘘つきだった。


 この準備体操も社会的な運動としてタイトルを紙に書きながらやった。一動作を社会的な太極拳と言う運動のなかの身に付ける一つの部分ととして。


 読書も、グルントヴィ・世界における人間(内容が古くてちっとも面白くないや。僕は学術的な人間ではないので興味を持てないし、1割も理解できていないけれど。この時代の哲学の考え方としてやってるのかなあ、くらいしか理解できないや。)、弱虫でいいだよ、植物はなぜ動かないのか、南洲翁遺訓とちょこっと読んだ。ちょこっとずつしか読んでいない。



☆ 僕は、全部身に付けようと思ってやろうとしてきた。手芸ならタイユール・鈴木健次郎みたいに全部できるようにならなけれ、目指さなければと。
この間の少しの前進で、少しの部分に満足するという考えは、弱虫でいいんだよの見開き2ページ読んだら満足するとか、そういう方向に進むことになった。僕はどんどん本を読んで、どんどん頭がよくなって、どんどん勉強できる人にならなきゃとか幼稚園児みたいな見方だった。そうではなく、見開き2ページをきちんと社会的な刊行物の本の辻信一さんの弱虫でいいんだよ・の理解をするという、限定された、わずか2ページに満足していくという、ちょっとの前進で満足する・理解する方向へ動くことになった。スーパーマンではなく、ごく限定されたちょっとの前進・進歩に満足するという、限定された人間に開かれていく道筋を見出すことにつながった。



 4ろのご、という碁の幻冬舎の子供向け教材のセットがあるけれど、前ならどんどんやって7ろのごに進んで、どんどん身に付け碁ができる人にならなきゃとか思ってきた。そうではない。4ろのごの1ページ進んだ。この1ページ身に付けたで満足する。すごく限定された限定された人間で満足する、限定された人間になるという道が開かれた。

 だから、本もどんどん買う必要がない。物も増やす必要はないかもしれない。限られた部分の人間としてやっていく。


 手芸の作業所に在籍していた時を振り返ると、どんどんできるようにならなきゃと思ってきたけれど、手芸の作業所の着物解体作業員で満足する、札幌のA型作業所の一員と言うすごく限定された、限られた部分に満足していくという方向でいいと言えるなあと思う。




☆ 女性も美しく若いではなく、肉がたるんだ美しくなく50歳の女性を50過ぎの格好良くない僕が愛するみたいな、限定された部分でいいのではないのか。

 この限定されたというのは僕のあらゆる部分を小さい満足というキーワードで規定して、限られた部分からの満足を吸い上げるという方向に開かれることになると思う。限定・満足という強力な見方と武器だと思う。

本:DVD付き:太極拳をはじめませんか、王茂斌

 今日は調子が良いと思い、タスク管理のやり方で、太極拳、リコーダー、読書に取り組んだ。

 やる前に進む量を決めてしまい、(いままでは、どこまでもやろうとしていた・そのやり方だと終わりがなくなる、そしてモチベーションも落ちる)、決めた分量だけやった。太極拳はここまで、リコーダーはここまでと。


☆・太極拳をはじめませんか、王茂斌、春秋社(前に中古で購入していた・DVD付き)


 半年くらい前に買っていてやっていなかった。時間に余裕があるのでやってみた。

 これがすこぶるいいです。最初にただ突っ立っているのが3~5分、動きのない映像が映し出される。これが、僕みたいな入門者に向けて作られているのを物語る。本当はただ立っているのではなく、足底から気が上に上がってきているイメージを持ってやる。らしい。
 本は、DVDの付属説明で、最後に「東洋医学のこころとからだ」という、理論らしいのが編まれている。

 準備運動をやりながら気を使って、気を身体に通そうとする。気をボールのように持とうとするのも第2部から始まる。僕のような初心者向けですこぶるいい。続けたい。DVDがいいです、解説ナレーション付きで。




 調子が良いと思って出かけると、非常に調子が悪かった。僕がダメなのか、調子のリズムが下がっていたのかわからず。どうにも調子が悪いらしかった。ただ、歩きながら気が足底から上がって頭頂に抜けるようなイメージを持とうとしながら歩いた。これはそれなりによかった。すこしおもしろかった。

 料理する気持ちになれず、冷凍食品になった。

 市田柿を食った。父が昔買ってきていたもの。懐かしくなった。あんこのようにうまかった。


 リコーダーも足底から頭頂へ気が抜けるように吹いたら、力まず良い音で吹けていた。キンキン音がしていなかった。今まで吹いた中で一番良い感触で鳴っていた。
 僕の歩いているときのイメージは、孤立部縁で自分の内側のエネルギーを使い、内側のエネルギーだけに頼りしゃにむに体に伝えようとする非常に閉じた、乾電池を背負ってその電気エネルギーを使いながらそれだけで動こうとするロボットみたいなイメージだった。
 今回足底からの気を使い、その気を頭頂に抜けさせて歩くイメージを使うと、かなり体にやさしい、気分的にも柔和なものになった。ただ、調子が悪かったから変な気持ちでは存在していた。

 この間のカウンセラーの先生との面談で、弱虫でいいんだよ、の本の説明ができなかったのはショックだった。僕は本を読んでも何にも理解していないことが露呈された。ただ眼で活字を追って読めるというだけのことだった。理解して、自分の頭の中に構築するというか理解の枠組みを作る作業ができていないのがはっきりわかってしまった。僕は薄ぼんやりでバカなのだと、そのような状態だった。

 その1章を読んで、理解の枠組みができるまで何度も読むのがいいかもしれない。わかったら次の章へ進む。そのやり方は、去年読んだ、


・能力を伸ばす四つのポイント


 で学習した。それをやればいい。僕はたくさん読んだり、いろいろなことに首を突っ込むのがいいと思っていたけれど、きちんとひとつずつ取り組んで理解しながらやったほうがよさそうな気がしてきた。僕は亀より遅いミミズだろうとは思う。ニョロニョロ。   <バハハイ・さようならと言う意味のつもり>

カウンセラーの先生に会った。

平成30年1月16日 火曜日

映画:リトル・ブッダを見終わった。あまり面白い映画でなかった。一番印象に残ったのは、ブッダが荒行をやっていて、付き従った弟子が、ブッダが荒行を辞めると言ったとき皆離れていったところ。ブッダは川辺で船に乗っている人が竪琴の糸を張りすぎてもダメだし、張らないで緩んでもダメだ、ちょうどいい張り具合がいいのだといった時、自分の極端な荒行が何ももたらさないとわかった時の場面。
 この弟子が皆離れて行っても自分の道を進もうとしたところのブッダの気持ちの所に興味が引かれた。誰もブッダについていかなくなっても自分の道を歩み始めたブッダ。そこに惹かれた。

 今日はカウンセリングに行きました。


カウンセラーの先生に見せた文章:

よろしくお願いします。
 母が入院しまして、家の管理と父の面倒を見ています。
 僕は日中家にいて生協に出かけるくらいです。
 自分の生活が狭くなっています。ずっと最近は部屋の整理をしています。とても汚い部屋でこういう機会でないと整理できずにいました。だいぶまとまってきましたが、完璧までやりたいという願望はあります。

 カウンセリングで先生に僕は成長できた時によかったね、が少ないと言われましたが、それが今の課題です。何かをした時、部屋の整理でもここまでできたねと一度満足を入れたほうがいいのではないかと思っています。3秒間でも5秒間でも意識的に満足の時間を持つようにするのがいいと思っています。(まだダメだとか、こんなものと思っていつも終わることが多いです。常に結果・行動の終わりに否定を入れている)
 英単語を一個つかもうとし、少しでも捕まえられたら(覚えられたら)その時点で満足を入れてもいいのではないのかと思っています。僕はもっととか、それくらいでとか、父母の反応を自分のやり方にしてしまっていて、自分で取り組んで、自分のちょっとした成長に自分で意識的に満足を入れる、そういう機会を持つことが大事ではないのかと思うようになりました。



 あと、母のことですが、母がいなくなって、僕に自信がないのは母のせいではないのかと少し思っています。母は僕を認めることはなく否定の言葉を言う事が多かった、全部ではありませんが、僕の判断や行動はいちいち棚にあげられたというのがありました。だから母がいないというのはある意味いいのではないのかと思います。
 この間の病院面会では母は落ち着いていました。でも、父に比べると(父はテレビに依存していますが、こちらを操作しようとするところもありますが)父は感謝の言葉を言ったりしますが、母は否定の言葉が多く、僕の判断は否定されることが多かった。僕にとっては、母はあまりいい人ではないと感じています。


 話は違いますが、自分の取り組むことは、決めを入れなければならないと感じています。手芸は決めを入れないと製品になりませんが、家の掃除をしていて、何をやるのでも決めを入れて進めないとグチャグチャで終わっていしまう。片づけでも、物をまとめようとしないとダメだし、まとめたものをきちんとしまわないとダメです。僕はグチャッとやってきました。だから部屋が汚かったです。ここまで来たのは僕にとってすごいことですが、さらにもう少し詰めてきちんとやりたいです。完璧まで一度やろうと思っています。いまは80%くらいです。まだ余地があります。
 なにかにつけて、人間の生活は決めを入れてやらないと中途半端なままズルズルと行ってしまうと感じています。


これを見てもらいました。
 何かやったら満足する時間を5秒間でも持つようにする、まだこれしかできていない、こんなことがこんなにかかって、と否定の言葉を入れるのではなく、満足の時間を一動作ごとに持つようにすることの大切さはカウンセラーの先生も、そうだよと言っていただきました。
 ずっとやり続けると疲弊してしまう。まいってしまうから、掃除でもずっとやってもきりがないから、ここまでやったら休憩とかここまでで辞めるとかそういうのが必要だと仰(おっしゃ)っていました。先生に賛同して頂き、やはりそういうものなのか、ぼくのずっとやってきた、「これしかできていない」「これっぽち」といちいち否定を入れる父母の反応の仕方を自分のものとしてしまったやり方のまずさを認識しました。
 きょうなら、カウンセラーの先生に会えてよかった。カレーを作ってよかった。洗濯をできて良かったと、満足を持つようにしました。したつもりです、5秒間くらいでも。

 あと、決め、と言うのは先生にも質問されましたが、テーブルをマットに合わせて揃えて置くとか、シーツを畳むとき4隅を揃えて畳むとか、ベッドを直してから布団にもぐりこむとか(そうしないと布団がぐちゃぐちゃになる)、そういうことです。それの必要さを掃除をしていて痛感します。


 弱虫でいいだよ、の本の説明を先生にしましたが、僕は理解が悪いらしくうまく説明できませんでした。ゴリラの話です。ゴリラはオス同士の喧嘩メスが割って入ってなだめるということがあるらしいのですが、その喧嘩の上下関係をつけないやり方です。サルは上下関係を持ちますが、ゴリラはないらしいです。横関係で生活しているとか。
本を見ましたが、勝ち負けでなく、助け合う関係が良いのではないのかと著者が言っているように理解しました。共同作業とか、対等な関係という言葉が本にありました。
 他の人に説明するときに、僕の理解が成っていないというのがよくわかりました。僕はやはり頭がよくないのか、国語の勉強が足りないのか、理解が悪いです。本を読んできちんと説明できるようになりたいと少し思いました。


 今日のカウンセリングは持って行った上のプリントの話だけでした。
 あと、僕は顔が黄色い、あまり良くない表情らしいと指摘されました。最初に会った時と似ていると。確かに生活は自閉していますし、広がりがないです。そこは改善したいと思いました。掃除もある程度やったら次の日に持ち越すとか作戦でやったほうがいいと思った。やはりカウンセラーの先生とか外部の人間を入れたほうがいいらしいとは思いました。(自分の生活に)

<おわり>

何か一つやったら、振り返って、5秒間の満足する満ち足りた余裕の時間を意識的にもつようにするといいかもしれない。ひとつ動作を終えると満足してやる。印刷を終えたら、印刷をできたことに満足するという手順(5秒間の満ちた時間を持つ)を意識的に作るようにする。

平成30年1月14日 日曜日

・どらえもん はじめての国語辞典、小学館、2013
p637
まんぞく【満足】①心の中に不平や不満のないこと。気持ちが満ち足りていること。
②十分なこと。完全なこと。

まん【満】①いっぱいになること。②全体。すっかり。

p379
そく【足】③たりること。

p487
とりくむ【取り組む】①熱心にものごとに当たる。②すもうでたがいに組みつく。


・常用字解〔第二版〕、白川静平凡社、2003

p648~649

~ 一面に刺繍を加えた礼装用の蔽膝(へいしつ・ひざかけ)の形。ひざかけ全体に刺繍が施されているので、飾りがみちるの意味がある。水(さんずい)を加えて、水がみちあふれることを満といい、水が「みちる」の意味となる。~


p437
足 解説 ~~膝と足先とを組み合わせて「あし」を示している。膝から下の足全体を写した形は疋(しょ)で、〇(しょ・たすける)と通じてたすけるの意味に用いる。~~足と疋とは形が非常に近く、また音と意味が近い字である。

P299
取 解説 ~耳と又(ゆう・〇)とを組み合わせた形。又は手の形。戦場で討ちとった者の左の耳を、討ちとった証拠として手で切り取ることを取という。敵の耳を切り取るの意味から、すべての物やことについて「とる、うばう」の意味となり、また「めとる」の意味にも用いる。~~

p419
組 ソ くむ・くみ・くみひも 解説 形成。音符は且(そ)。組紐(くみひも)のことで、~~纓(えい・ひも)と為す」という。纓は組紐の細く密なもの、その大きなものを綬という。組紐は多くの糸を組み合わせて作るものであるから、組織(ひもを組み、はたを織る。また、全体を作りあげること)・~~



(kurage0147130):
ということは、僕は自分に期待しすぎたり、能力以上を求めず、小さな満ちることで満足すればいい。小さな前進で心に満足を満たしてやる。ちょっとの前進で水をなみなみと満たしてやる状態にする。一回一回立ち止まり満足する。
 僕は一回一回理解しても、まだだめだ、途中だと腰を折っている。それは父母の反応のせいだと思う。

 取り組みは、耳を集めて紐に通して腰か首にぶら下げる、そういう行為のことだと思う。血生臭いな。戦争だから全力でやったのだろう。熱心でもあったのか。

満足の心、清澤満之、貴重資料研究会

満足の心、清澤満之、貴重資料研究会、2016 kindleダウンロード 99円。

読んでの感想:僕はかなり主観的な意見です:僕の意見は曲がっているような気もするがご愛嬌:

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 わかりやすい言葉で真実をとらえているようですが、僕は頭が悪いのか消化不良。何回も読んで、自分に当てはめ、消化するまで時間がかかりそう。執着できないものに執着し、欲望できないものに欲望するから満足できないとある。
 これを自分で言うと、若い女に執着し、若い女に欲望する、自分の執着や欲望に根本的な誤りがあるらしいなあ。この執着と欲望は種がないところに種を見つけようとし、過去から続く現在に何の脈略もないのに突然若い女を放り込む僕の方法論が間違っているということか。僕には若い女が登場する文脈がもともとないのに、無理やり登場させてよからぬことが起こらないかと妄想するその手法に誤りがある。接点がないのに執着欲望している僕のあり方が間違いと言うことか。
 僕と言う場所には若い女が登場する素地が無しというところなのか。算数も英語も国語も自分の実力から言って高望みをするのは間違いだろうし、僕は自分と言う器を見ずに、小さい器を棚に上げて、そこに大皿を設定している、その歪みがすべての原因か? 小さい器、過去から僕が付けてきた道筋・小皿なのだから、小皿に盛りつけられた小さな食をありがたく頂戴し、味わい、満足するべきなのかもしれない。

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 お久しぶりです。一昨日は風邪でだと思うのですが、一歩も外へ出なかった。出たいと言う気力が湧かなかった。その伏線としてだとおもうけれど、調子の悪さから鉄分の注射をしてもらいに行った。僕は鉄分が、普通の人の最低ラインにあって、疲れやすく重たい感じで過ごしている。
 胃潰瘍で治療中に、5年くらい前、鉄分を注射してもらったらやる気が起きて水泳につながったといういい思い出があった。いつも重いのに、鉄分を注射してもらったら意欲も湧いて泳いでみようと積極的になった。

・弱虫でいいんだよ、辻信一、ちくまプリマ―新書

 この本にはかなりインパクトを受けました。ゴリラの喧嘩をしない、上下の区別を持たず、喧嘩になりそうになると、体力が弱くても別のゴリラが間に入り仲裁して終わりになるらしい。そこから、他の人との喧嘩をしない共同体と言う横のつながりに話は進み、家族やコミュニティの喧嘩をしない上下の区別のないつながりが人間らしいと主張する。人間らしさとは、勝ち負け、上下、競争ではなく、つながりを持ち、その共同体での活動を大事にするところにあるのではないかと言っていたように感じた。
 僕は強さとか、上下が共同体の主旋律だと思っていたけれど、横のつながりが人間らしいという主張に新鮮な感じを受けた。

 この本の影響下にあります。最後の章に入るところまで読み進めました。すごく楽しくおもしろく、感化されています。久しぶりに読書が楽しいと思いました。自説を主張すると言うより、他の話題のポイントをたどりながら、そのポイントで主張がなされると言う書き方だと感じました。取り上げる話題も楽しいです。「ゆっくり」でいいんだよ も読む予定です。楽しみです。
 
 僕は満足する力や取り組む力にいま興味があります。小さなことに満足して感動して喜ぶ、その感覚が毎日の活動の原動力ではないかとポイントを絞っている。取り組む力も、人間は何かに取り組む存在で、取り組むことで時間がたつと言うそういう生活スタイルの動物だろうと思っている。その辺がうまく回ると、ちょっと楽しく過ごせるように思えるけれど、どうなのか。

女自身より色っぽい気もする。
www.thepictaram.club






トラウマをヨーガで克服する

をやったけれど、木のポーズ、腕を上にあげて、左足を右足にくっつける。その前に意識を頭頂に持って行った。

 これで感じたのは、僕は意識がいつも胸のあたりにあり、潰れているイメージを持っていること。だからこの木のポーズで意識が頭より上の空間を意識させたのは新鮮だった。頭頂に意識を持っていくのもいつもと違うので面白く感じた。

1/6(Sat) 読書

1/6(Sat)

 林へ歌いに行った。翳りゆく部屋。3日目。母に対する憎しみを込めようとした。表現としては80%の合格点だった。子門正人のような、ビリー・コーガンのような潰したうたい方になった。何度もやってきているので歌い方に新鮮味はなかった。かなり表現はできていた。憎しみ表現としては完成に近いし、よかった。けれど、自分の心の感情としては表面に憎しみが浮いてこなかった。歌表現のみだった。心が伴わなかった。その点は残念。他の歌でも続けるしか感情は浮いてこないかもしれない。


・ 弱虫でいいんだよ、辻信一、ちくまプリマ―新書、

 読んでいる。狩りの所で、地元の地域の人は石にも動物にも草にも人間との付き合いのような対等な関係性で接していて、殺すことに躊躇はないそうだ。自分の所の来てくれたのだから、感謝こそすれ残念とは思わないと言う。残念と思うことは失礼だと。自分の手にかかって死んでいく命に感謝と尊厳を見ているらしい。アイヌ民族とも共通する関わりだと思う。(よくわかっていないけれど、文脈で、勢いで言っています)

 このちくまプリマ―新書、読んできた本に外れはなかった。この本も当たりだった。すごく楽しい。僕も強さには懐疑的で、過信する気はないので、弱いと言うキーワードで本が進むのは楽しい。中だるみあったけれど、今読んできた箇所はとても楽しかった。ナマケモノの話もすごくよかった。自分のぶら下がる木に、危険を覚悟で地面まで樹上から降りて糞をする。木にもお返しをするという、葉っぱを食べてばかりではない育てると言う行動が伴うのだそうだ。


・ 南洲翁遺訓、西郷隆盛

 この本齧っているけれど、自分が危機になったとき、かわそうと汚い手を使うのを戒めている。汚い手を使うことはかならず自分に返ってくるから、正当法の方法を取れと言う。僕は、今まで、最近を除いて、自分が不利になったら何が何でも守り抜く、汚い手でもいいから自分の陣地に入られまいと思ってきた、これが良くないと言われた。最近は汚い手を使うと言わなくても少し余裕があるから、自分の所を何とかも守ろう、入られないよう自分の陣地を固めているけれど、昔は余裕がなく我武者羅(がむしゃら)だった。正攻法で進めとのアドヴァイスだった。著者がものすごい人だから僕に当てはめるのはナンセンスだけれど、爪の垢でも煎じようとは思う。



・ 世界における人間、グルントヴィ

 は、ようやく読みやすくなってきた。今までものすごく硬かった。今のところは何とかついていける。身体の話が面白そうだと予想して期待している。グルントヴィさんには付いていきたい。


 読書は自分との対話でもあるし、知らない話を聞けて、おもしろくたのしい。

1/5 Fri いうことは何もない自由の利かなさ。

 今日は母に会いに行った。近くに大学があり、学生はそちらに行くが僕は精神病院に吸い込まれた。帰りもそうだった。寂しい気がするが、僕は精神病の純血種(父母ともに精神病)というありがたい一族に含まれるので、その有難さを噛み締めてきた。

 今日は首が潰れていたらしく、周りがチョロチョロしていた。僕はなるべく惑わされないように、しっかりと手綱を握っていたつもりだった。父母ともに精神病で、僕もそうだという重い現実を正面から受け止めようとしたつもりだった。


 ユニクロの新しいダウンジャケットを着ていった。ジーンズも新しくした。両方とも6・7年着ている。取り替えたくなって去年購入した。

 無印良品でも収納グッズを購入した。いっぺんに収まったり、きれいになろうとは思っていない。徐々に詰めようと思う。

 母は退院後どうなるか、主治医の先生の意見を聞いて決まるらしい。そういう段取りを病院の相談の方から伺(うかが)った。父の足取りも怪しくなっているし、高齢になると寂しい話ばかりになる。

 僕もだんだん自由が利かなくなり、父母の高齢の重さも加わって、世間並みの重さを抱(いだ)いている。なるようにしかならないと思う。僕としては日常を徐々に詰めていく方向で、雑用をこなしていきたい。

 歯切れが悪いが、重い、というのが率直な感想。楽しさや浮ついたものはどこにもない。淡々と歩を進める。その毎日の中にある。父は徐々に介護という言葉がふさわしい頼りなさの中に突入している。もう限界も近い感じがする。(家で面倒を見るのが)

 施設にデイケアに行った日は、たいてい帰ってくるとぐったりして、テレビを見て、やっとのことでベッドに潜ってくれると言う、そういう日を父はすごしている。父と付き合うのも大変だ。(床に寝ないように誘導する大変さがある。)

 
 明日は歌いに行きたいとは思っている。父のこともあるしどうなるか。10日のカウンセリングもキャンセルになりそうな気がする、そうする気がする。
 まったく自由が利かないなあ。ぼやくしかできない。ヨガは楽しみになっている。これは救いかも。

 午前中ヨガをやった。昨日から。自分との対話ができる。

・トラウマをヨーガで克服する、デイヴィッド・エマーソン/エリザベス・ホッパー 伊藤久子訳、紀伊国屋書店

 これを始めた。ヨガの写真付きのページは解説が懇切丁寧でコツが書かれていてとても親切。

 楽しくやっている。目を閉じてやっていると、光を感じたり、身体で空間を感じたりした。ストレッチ、作業所に通っていた時にやっていたのも再開した。自分の身体と対話して自分の時間を持てて、特別な時間が流れる。そこが気持ちがいい。






 歌った。5日ぶりくらい。結果は負けた。40%しか表現できなかった。サビ以外はまあまあだった。

 最初から愛をうたうとか血迷っていた。3回目くらいから親を倒そうとうたった。それでも気持ちがこもらなかった。

 結果、母への憎しみをうたわないと先へ進めないと思った。一番先に来るのはそこらへんだろうと想像している。

 憎しみだから潰して歌うと、ビリー・コーガンのような感じだろうと思う。

 

youtu.be


 今日はダメで、完全に負けていた。敗北。
 





youtu.be

甲本ヒロトさん、この動きいいですね。歌手の鏡だと思う。

掃除

・世界における人間、グルントヴィ、風媒社、2010

 読んでいますが、とても硬い。宗教的で神を前提としている。200年くらい前の人だから当然なのだろう。今読むことにしてよかった。あまりに硬くて教科書的で、学生に所属していた当時の教科書を思い出させた。10%くらいしか理解できない個所もあった。とても倫理的で理解しづらい。久しぶりなので面白がれるが、ずっとこの調子で古くて倫理的で硬かったら投げ出すかもしれない。
 ただ、この名前、グルントヴィという響きに惹かれるので読み進められるかもしれない。僕はこの人が好きだと思い込んでいるので付き合っていけるだろうと今のところ楽観している。





・ 部屋の掃除だけれど、ただ収納すればいいわけではないと思っている。残すからには、片づけるからには使うことを前提とするし、使うことは生活することで、生活するとは環境に働きかけ、環境とともに時間を使い、物自体からも影響を受け、ものにも働きかけることだと思う。

 限られた物、空間、時間、肉体のなかで、ささやかに僕の暮らしを使い、回し、共に歩む部屋を慈(いつく)しむ行為が、掃除・生活・暮らしだと思う。部屋を明確にしないと片付かないと思う。全部を残すことも、全部を片付けることもできないと思う。区切り、仕分け、捨てる、分離が僕の暮らしをはっきりとさせると思う。あいまいな部屋は、片付かないとイコールだと思う。僕も部屋に試されているのかもしれない。

 汚い僕の部屋は、僕自身がゴチャゴチャで曖昧で、未決断で、未熟を映してきた。だから、それらと決別し、新たな部屋との関係に入ることだと思う。厳しさがないと部屋は片付かない。ぼくはまだ曖昧な中にいる。残し共に歩む物、それらに明確な性格付けを求められる。使うという前提。使うと言うのは、今の生活を規定し、先へ進む目標を明確にし、僕を規定する。僕が部屋から作られ、僕が部屋を作る。部屋と言う環境を掃除することは、僕自身に求められ、決断を迫る。いままでの逃げは汚い部屋しか生まない。はっきりしなければならない。片づけて終わりというわけにはいかない。生活をこの空間で回すという毎日を厳しく問われているのじゃないかな。??? (曖昧なまま終わる。いまのところ取組中なので。)


無印良品の、文房具テープカッターとアロマフューザーを持っている。この2つが初めての無印良品だった。

 部屋を片付けるのに、無印でやろうとしている。

・この使い方がすごい! 「無印良品」、主婦の友社 を買ってみた

ウェブページも使い倒そうとよく見ている。安く上げる作戦で、高いのを買うと身動きが利かないので、安くしようとしている。


・タスク管理超入門 というアマゾンで昨日、99円だったのをやっている。キンドルダウンロード。この本に沿って、できないことをやろうとし、てきぱき生活しようと思っている。簡単な割には実践すればかなり良いだろうと思う。

僕の歌。

2017 12 30

 歌いに林へ行った。昨日も行きたかったけれど、首が潰れているようで乗り気でなかった。それで昨日は、spotifyで、右下のマイクマークを押して歌詞を見ながら歌った。エレファントカシマシ荒井由美カヴァー、翳りゆく部屋。家で結構声を出してて歌ってまあまあ満足した。それで印刷をかけた。ラインでつないで ÷い (悪い)音でも録音した。

 今日の林での歌は、一回目が声出し、2回目が慣れ、3回目が調子が出てきて、4回目が勝負だった。
 
 4回目の最初のころは、歌詞を表現しよとした。失恋を。声に失恋を込めようとし、叫ぶところで悲痛な気持ちを込めた。一番最後の叫びで、よく表現できた。歌は60%くらいの出来だった。表現としても40%くらいで、表現することのとっかかりとなり大収穫だった。小収穫だった。
 
 歌で感情と言うか、場面と言うか、失恋を表現しようとし、ちょっとできてちょっと満足した。僕も歌で何かできそうだと思った。80%の表現まで持っていければ、だいぶ歌もよくなると思う。最後のシャウトは宮本とは違う形で、自分なりの叫びを入れてみた。僕には感情表現の核となる思いがあると自己満足しているので、もうちょっと改善できると思う。

youtu.be

追記 ::小さな一歩と小さな満足(僕の主張する見方)

追記:

 小さな一歩とは、小さな一歩をよく認識することか始まる。小さな前進に目を凝らし、ジッと見つめ、よく身体で感じること。小さな一歩を見逃してはいけない。良くわかること気が付くこと感じること。ここができないと、いつまでたっても不幸に身を置くことになる。幸福とは小さな一歩をよく認識し、身体で感じることだと思う。



小さな習慣 という本がある。

前に見たとき買わなかったのは、わかりきったことだから。立ち読みのページをウェブで見たり、目次を見たけれど、買わなかった。僕にはどうも違うという気がしていた。

 NHK Eテレで、子供の英語番組をやっていた。Whale くじらの発音だった。 唇をとがらせてWhと発音する。知っていたか、知らなくても自然にやっていたかもしれないことだった。自分でやってみて、楽しかった。司会者に合わせ、子供たちに合わせ繰り返し発音した。
 僕はちょっと満足した。ちょっとのことで、前進とは言えないようなことだけれど、ここには満足があった。小さな習慣では扱っていないことだと思う。(たぶん)

 挫折するのは大きな目標を想定しているから。そのための小さな習慣だと思う。小さな一歩を踏み出したら、その小さな一歩に対して、小さな満足を覚える必要があるのではないのか。大きな目標を立てるのは大きな満足があると思うから。小さな習慣も大きな目標を前提にしている。と思う。

 もう繰り返しになるけれど、ちょっと進んで、ちょっとのことに満足する、こんな小さなことだけれど、こんなことができた。これをやれた。ここの小さな工夫に満足する。ここのちょっとのことが楽しい。この些細なことができてうれしい。というような、ちょっとのことに満足する、そのいちいちが大事で核になっていくのではないのか。小さな一歩を標榜しても、大きな目標を前提にしていたら潰れてしまうのではないのか。

 ちょっとのいちいちに素直に、単純に、喜ぶ力が必要なのではないのか。そこの感受性を育むことが本当の成功ではないのか。大きな目標が大きな満足でないように、ちょっとのことで大きく喜ぶ、感じ方が、そこのところを大事にする、満足する力が一番大事な気がする。ここをできるようなることが成功への道だと思う。

 だいたい、小さな一歩しか人間は歩めないのだし。一つ一つ手さぐりで動かすしか人間にはできない。小さな一動作(いちどうさ)しか人間の身体はできないようになっている。ひとつの動作が、この一つの身体を占有するのだから。
 だから小さなことに満足すると言うのは、ちょっとの一歩にちょっとずつ大きく満足する力を必要とすると思う。大きく満足する力は、よく味わないとできないだろうし、自分を過信していてもできないだろうし、遠くを見ていてもできない。小さな一歩をよく見つめ、その小さな一歩にいちいち満足する自分の側の成長された部分があってのみ、小さな一歩に大きく満足することができると思う。大きな満足と言うのは、小さな一歩を喜ぶ力のことだと思う。大きな目標に対して大きな満足ではなく、小さなことに大きく満足してのみ、一歩を歩めると思う。   <おしまい>


追記:::::::::: :::::::::
 カウンセラーの先生が、僕に言いたかったのはそこではないのか。先生は、僕が自分のちょっとの成長に満足しないで、次々先へ進もうとするのを残念がっているようだった。僕はその時今より成長されていなかったと思う。
 今はどうかと言うと、これを主張するほど僕は成長されていない。これは試論としてあるだけで、実践はこれからです。まだ僕の中では先端の部分。僕はこの意見に追いついていない。これから、この意見を実践できるようになりたいと言う願望です。この意見より僕は低い部分にいます。


:::介護の方へ向けて書いたもの:::



 こんにちは。
 父が立ち上がれなくなりつつあるという現実から、父が死に向かっていて、そんなに自由はないことを思いました。

 僕が父を施設に入れたいとか、全日介護をしてほしいとか書いたのは、作業所に復帰したいと言うのがあります。働くのも苦しいですが、働かないのも苦しいです。
 現実を見つめると、父が家にいるということは、僕は働けません。父の面倒を見てもらって僕が働きに出ることができます。

 週2日のデイサービスは継続させて頂いて、残りの5日ですが、僕が作業所に(別の所になると思いますが、前の所は辞めたのですぐに入ることは募集がかかっていないでしょうから無理だと思います。)応募して採用された場合、2日間は休みだと思います。(A型作業所・4時間勤務を想定して)

 父のデイサービスとは休みは必ずしもダブらないかもしれません。週5日間は介護の人に来て頂いて7:30~16:30くらいまで父の面倒を見て頂かなければなりません。
 それを施設に父が行くことでカヴァーしてもらうか、介護の人に来て頂くか、介護施設に入所になるのかはわかりませんが、そうしないと僕は働けません。


 週2日の休みの日は、父の面倒を見るのが基本でしょうが、前の作業所で織りと中古着物の糸を除去する作業をしていたので(皿洗いゴミ捨てもしましたが)、織りの教室(2時間・   )は週に1日は通いたいです。(無理なら月2とか)

 そして、カウンセリング(45分・     )も月2くらいは通いたいです。(継続して受けていました)

 あと、猫の世話ボランティア(2時間・    )もしていましたが(糞取りとか部屋の掃除)、これは無理かもしれません。

 これらは高望みかもしれませんが、僕の希望です。無理なら諦めます。週2日、父の介護をします。(家で織りをやるとか、カウンセリングは( 曜日でした)作業所のある日の帰りに別のカウンセラーの元へ寄るとかと言う方法もあると思います)
 

 作業所に応募して働くために、父の介護の人の力が必要です。これを叶えて頂けないでしょうか。無理なら働けず、家で燻(くすぶ)るしかありません。どうか便宜を図って頂きたいです。失礼します。