カウンセリング 6/28 Wed

追記

 キッドマン見終わった。特典映像キッドマンインタビューは、こちらの方が笑顔が素敵で良かった。役者話で終始した。

 本編最後のキッドマンの一言、とその前のクルーズの告白に対する感想は、女としてやってきた肝っ玉と自信が言わせたのだろう。キッドマンはずっと誠実で前向きで頑張り屋だなと感じた。
 
 今は歳を食っているはずだけれど、あの調子ならやってくれそうだなと思った。この映画でキッドマンが好きになりそうな気がする。強い女として。マッチョ女。万歳。



2017年6月28日(水)


 カウンセリングを受けました。抑圧してお腹に黒い石のようなものがある、という所から、身体の感覚をつかむため、その逃げているのに地下室に行って会いに行くという趣向から始まりました。



 地下室へ降りようとして、足が痺れていて萎えているということが最初に来ていて、階段を下りるに行かないで、その痺れている感覚と向き合うということに、カウンセラーの先生の指導のもとなりました。



 足先が痺れ、足裏も痺れ、その痺れというのは寝ていて起きると足や手を巻き込んで寝ていて痺れているという僕のくり返す日常と関係がある、放送大学にいたとき、その最初のテストの時も左手を巻き込んで痺れて1か月使えないこともあった。それと同じ類の痺れが階段を下りるという心理療法の時に出てきていた。



 足を自由に動かすとするとどうすると聞かれたので、父の脚を蹴飛ばすというのが浮かんだと答えたら、先生は診療室のキャスター机を向こう側で押えているから、僕に父を蹴飛ばす気持でゆっくりと力を入れて押してみろという。やってみたら、終わったとき足が自由になる気がしました。



 心理療法が終わって、これはソマティック・エクスペリエンシング(SE)というらしいのを教わった。僕はマインドフルネスに近いと感じた。ゆっくり蹴飛ばすところとか。SEの本はどうかと訊いたら、難しいからと言われた。僕の頭のことではなく、経験値のことだと思った。僕は心理学の素養を持っていない。その人が読むには真価を理解できたないということだろう。



 そして、マインドフルネスでは作業モードでは幸せになれなくて存在モードが必要だといったら、それは前に言いましたよ、とのこと。聞いてみると、脳幹の恐竜の脳のところが傷ついた人はやられているので、そこを治さないといけないと。それが存在モードとつながるらしい。



 僕は肩回し・歩行をゆっくりやったりしていると言い、マインドフルネスのゆっくり動かすの大事さを教えてもらったのでマインドフルネスをやろうと思った。本の続き。案外そこが近道かも。





・ アイズワイドシャットは全部見てなかったのかもしれない。あのときは、過去の見たとき、僕には難しすぎた。だから、見てたとしても理解しないで見ていた。今回はわかると思う。キッドマンのクルーズの館から帰ったときの夢の告白は、これもいい場面だった。キッドマンはいつも正直だ。ただちょっと本人よりかなり弱い設定だと思う。軟弱に描かれている。

 クルーズはへまばかりやらかして、見ていて煮え切らなさを感じる。詮索するなと言われているのに館を再訪したり。この人は何なのだと。その辺で中断している。




・ カウンセラーの先生の心理療法、今回は、治療のすごさを少し感じた。実感ではなく、振り返ってみて。実際のところはすぐ効く薬ではないのだから、徐々にあらわれるのだろうと思う。父を蹴飛ばすのをやってもらって、カウンセリングってすごいなと感じた。
 
 僕は父へのいろいろな気持ちを出せないで溜め込んでいると言われた。

28 Tue 映画 ・ 甘僕

28

seesaaブログのほうで書いていた続きをここでします。

 僕は、作業所で50代女性が好きですが、若い女性も好き(女全般・特定な人ではない)です。この2者で裂かれている。どちらにも手が出ない。アホか、という話です。

 


・ eyes wide shut を1時間10分くらいまで見ました。ニコールキッドマンの裸にはあまり興味を持たなかった。キッドマンは僕の好みの女ではない。あの癖のある、尖った顔には興味を持てない。助平シンボルとして活躍された方ですが、当時はそそられたけれど今は何も感じない。

 キッドマンの独白、海軍士官には全部捨てる気持ちがあったというのは、個人としてやっていれば当然起こることで目新しさは感じられなかった。1998年の映画らしいから、古い主題なのは当然かもしれない。キッドマンの真摯な姿勢には惹かれた。クルーズの古い男としての立ち位置には、キッドマンの笑うというのがふさわしいのは当然かなとも思った。

 クルーズは、古い男として揺らぎ、壁が崩れつつあり翻弄されていく、キッドマンの影響をもろに受ける。その分純真なのか。

 クルーズに古い男をやらせたが、キッドマンと同類だとどういう話の展開になったか? 二人で、最後の館に侵入するという話でも良かったと思うがどうか? 2017なら、そういう筋の展開でもよさそうな気がする。
 館に侵入でなくても、スワップを開催するとどうなっていくのか。2人はパーティーの後別れるのか? そういう筋でもいいと思うが。そうなったら、別れた2人は新しい恋人と楽しい人生をすごし、年老いてまた別れて、寂しい最後を送るとかどうだろう。最後また結婚するとか。ちょっと面倒くさい話になった。





・ 作業所では、50代女性と新・唯一無二の仲が悪くて、新・唯一無二さん抑えてくれないかと思った。でも、そう思って、態度に出てから、自分を振り返って変なことに気づいた。

 新・唯一無二がどういう態度を取ろうがそれは唯一無二に任されている。僕が口出す話ではない。ということは、それは50代女にも言えることで、唯一無二が冷たくてもそれを処理してやっていくのは50代女が自力で処理しなければならない。その権限も50代女が背負っている。

 僕が50代女に求めていたのは、自分をおぶってもらうことだったと気づいた。僕は、自分のことは自分で処理しなければならない。全部自分で解決して、自分で切り開かなければならない。手伝ってもらうことはあっても。だから、僕は50代女に甘えていただけだった。甘えん坊の小便餓鬼の戯言(たわごと)だった。

 というだけの話だった。

24 Sat 「歩く」 /23抑圧始?/ボランティア(動物愛護団体)

24
eyes wide shut, stanley kubrick を買うことにした。カット版のVHSをレンタルしたことがあった。


Barry Lyndon を見終わった。女房の連れ子と主人公の決闘シーンは見た記憶がなかった。たぶん初めて。そこが印象深かった。連れ子の屈折した人生がどうだったかが気になった。これからの将来とか。この人に感情移入した。僕は完全にマザコンか。


 ロリータ(キューブリック)を見終わっていない。バリーリンドンは、2年くらいかかって見終わった。亀のような視聴者。ロリータは、母親役の女優の快演が非常に面白かった。あの人の演技の存在感は抜群だった。他の人は嘘くさく作りものっぽい。母親女優はその人がいるのを感じられて非常に面白かった。


 ロリータは、少女という所だけれど、だいぶ大人だ。僕には、白黒なのが残念だ。(マニアックな映画ファンではないですね)
 僕にとって、バリーリンドンは凡庸に思えた。この辺も映画ファンではないのかもしれない。主人公の人生に肩入れできないのが、僕にとってのこの映画との相性の欠如。マザコンゆえか。





 アイズワイドシャットに期待しているのは、助平と、制限を外していく過程なのか? 制限を取っ払っていくとき、不安定と危険が忍び込んでくる。その辺をどう処理するのか。いいことばかりではない。マイナスは大きく被さってくる。助平の制限が取れたとして自由が待っているかというと、それはあり得ないと思う。女は他者だし、女は人間だ。女と付き合うという制限を背負うことになる。女に規定されてしまう。女による規定を良しとするのか? 女に何なのか? 最終的にはどんなに親しくても他者だという所なのか? 付き合った経験がないので何とも言えない。




 助平は物凄く人間にとって重要だと思う。動物だから。助平が報われることは、男になることだ。男になって、女を手にし、報われて、どこを目指すのか。 僕は女による規定が欲しいわけではない。女と関わると、助平の自由はあるが、人間として男としての最大の制限を加えられる。もともと自由はあるのか。他者の中の生活に自由があると思うのが間違いか。



 自由は最初からなく、勘違いだけが増幅されたのが自由で、(prince black albumは楽しんでやっているように感じれる・制限も最大だったとろうが音楽という土俵の上では奔放だったのだろう)、与えられた中での裁量とやり繰りだけが許されているだけの気がする。出口はないし、入り口もない。降りるところもない。乗りっぱなしの、アクセルとブレーキの操作だけ。


 僕が欲しいのは何か。自由ではない。出口でもない。事実と見通しが欲しいのかも。自分も他者も捻じ曲げることのできない事実が厳然としてある。でも、それも他者と自分によってできている。社会の要請によっても。見通しは、地図さえあれば歩いていけるからどうしても必要だ。女は出口ではなく、自由でもない。制限しかもたらさない。制限を加え合わないとしたら、別居しかないと思う。何を書いているのかわからなくなってきた。


 見通しは、歩くためにぜひとも必要だ。どこを歩いていて、どこを目的地として進むのか。正しい道はなく、望む方向へ舵を切っていく。道にも規定される。それでも歩く。目的地を目指して。到着はできない。ただ目指すのみ。目的地は振り出しに戻るだったりする。残酷だ。



 僕が望むのは、必要な情報と、仮定する地図と、仮定する目的地。仮定する歩くライン。歩くラインは、間違うことも多く、ぶつかったり、逆向きのスタートラインに進んでしまうこともある。歩こうとしてきたし、これからも歩こうとすると思う。歩いている足の下だけが照らされ、先も後ろも消えたり見えなかったりする。ただ、足元を照らし、歩幅を保って、身体を歩く態勢にして手足をバタバタさせる。


 それだけが許されていること。後は霧に隠れてなにもないし、どこという目的地もない。ただただ、歩こうと身体を動かす。








23 Friday

 リコーダーを1時間半くらい吹いた。休みなしで。はじめての長さだった。

 気づいたことは、リコーダーは難しいものではなく、管に息を吹き込んで、穴っぽこを押える道具だという、そのままのこと。

 自分のなかではだいぶ上達した。もうすぐレッスンの新しい所に進めそう。今日は2週間ぶりくらいで吹いた。最初かなりもたついた。




☆本題:

 
 抑圧している本体の存在を作業の最初の頃感じていた。呼吸と共にあろうと。僕はやはり逃げているのではないかと思いついた。抑圧と向き合うのから逃げている。問題と向き合うのから逃げていると。


 この感覚が本当なら、時限爆弾は動きだした。僕の抑圧が終わるカウントダウン。逃げていると感じることがスタートボタンになっているからだ。30年前の抑圧の時、そういう状態だった。だから本当なら動き始めたといっていい。思い過ごしなら、まだ始まるのは先になる。


 何が途中経過で飛び出すかわからない、お楽しみ時間が始まり、追い詰め、追い詰められ、核心に近づいていくという、流れになれるのか、まだよくわからない。この辺は慎重にしないと、僕のいつものバカ騒ぎになってしまう。




・ そういえば、昨日、岩合光昭(?)の猫歩き(?)という番組か? で、

 猫を撫でる、撫で方をやっていて、「あなたが大好きだよ」とやるらしい。僕の予想は間違っていなかった。ちょっと、番組を覗いた。




2017年6月21日(水)
 

 動物愛護団体へ出かけた。今日はうんちの世話ではなく、猫トイレトレイの拭き掃除だった。アルコールを吹きかけて、トイレットペーパーで拭く。


 交流スペースには新入りの子猫・キティが4匹くらいいた。



・はじめての猫との暮らし方、猫びより編集部・編、日東書院、平成26年(アマゾンで258円で購入。1+257円)



 この本のp82- の ニャンとも気持ちいいマッサージ を行きの交通機関で読んでおいた。猫との交流に使えるハンドタッチの方法が写真と文章で書かれている。わかりやすいかどうかはわからないけれど、とりあえず使えた。


 掃除をしながら、猫に触ったけれど、どうも相手の気持ちが鈍い。すり寄ってこない。触ったら逃げて行った。というような対応を全般的に猫は取った。少なくとも気持ちよいとは思ってもらえなかった。でも、成人猫にもキティにも触ってどんなものか試すことが初めてできた。


 最後はモップがけをやらせてもらった。四角い箱に水を入れ、足で踏んで引っ張って水を切る道具。床が木で塗料を塗ってあるのでモップがけだった。掃除機をかけた人の後に行った。窓ふき掃除の人もいて3人で今日は掃除を行った。


 モップがけは、水切り道具を使ってやったのは初めて、学校の雑巾がけ以外やったことがなかったので新鮮だった。映画によく出て来る、フルメタルジャケットの入隊訓練の場面にも出て来る行為。映画で見るとやりたくなくなるけれど、実際にやってみるとなかなかいいもんだ。僕は嫌いではなかった。地味な掃除はもともと性に合っているかもしれない。床面積が狭いので重労働ではないし。モップに水を浸けて、拭いて、洗って水を切ってまた拭いての繰り返し。椅子とかを動かしてよけながら拭いていく。任された感じがしてうれしかった。僕って単純だ。



☆☆ 家に帰ってきて、振り返ってみて、猫の受けが悪かったという事実があった。モップがけを終えて休んでいたら、窓越しに交流スペースにいた一緒に掃除した女性が猫をかわいがりながら椅子に座っていた。この方のようになるまでには遠い道のりで、すぐには無理そうだと感じた。

 僕は猫に触るとき、こちらが癒されよう、もらおうという、ある意味猫にとって不気味な触り方をしていたなと思った。機械のように血の通わない触り方。戦略として、猫に触るときは、愛をあげる、愛しているよ、好きだよという気持ちで触る必要があるのかなと。君のこと大事だよという気持ちを指に込める。そういうのが必要かなと思った。戦略としてそう思った。愛されたことのない僕は、愛をもらうというより、愛を与えることで愛を受け取ることになるのかなと思う。猫は気持ちの良くないことには敏感だ。気ままに生きているし。今度の課題にしようと思う。




 ボランティア女性は、性的に意識した。変に意識したので、性のある女性としてみようと切りかえて、自分の立ち位置を変更した。相手の女性が不気味がった、気持ち悪かったろう。僕のやることだから、ある程度迷惑をかける。この辺も課題。



・prince, black albumは、funkyでblack musicという佇(たたず)まいです。かなりエネルギーを注ぎ込み、真剣に作ったと思う。僕は、lovesexyのほうが好きだ。コントラヴァシーとか。スペルが書けん。



 朝が早かったので疲れたけれど、楽しかった。


・ そういえば、この前狙われたカラスのところに行き、あえて誘った。カラスはまたもや頭上にやって来たけれど、今度は頭の上に手を出した。やられっぱなしではなかったけれど、しつこく追っかけて飛来してきた。この街では、カラスとのやり取りも含めてのボランティアになっている。カラス君たちから隠れる気はないよ。また会おう、カラス君たち。



矢野顕子 piano nightly | 通販ショップの駿河屋

アマゾンレビューで教えてもらい、たまに聞く大事なCD。いま、安いよ。

20 Tue /前回のカウンセリング再考 (Mr.X(他者父)の導入)

20 Tue

こちらで活動。

kurage0147130-2.seesaa.net







2017年6月19日(月)


 前回のカウンセリングは失敗だと書きましたが、ルディ・デュラン先生の話を聞いて、それは間違いで、僕が勘違いしていたと思うようになりました。


 前回のカウンセリングは、父とコミュニケーションができないので、父を再教育させ新しい父となった怪物父とキャッチボールをするという趣向だった。父があまりに歪(いびつ)でボツとなったけれど、この間書いたように、新しい父親をどこぞから仕入れてきて、その新しい父親と人間関係を結べばいいという、考えになりました。前回のカウンセリングは失敗ではない。


 骨格は、ルディ・デュラン先生です。悪い記憶を消すのは、よい記憶だという話。悪い記憶は忘れて、よい記憶を残す。今日、まわりに無視されるような気がしたとき、僕は飲まれてしまっている。ぜんぶ否定というニュアンスに塗りつぶされてしまう。そうではなく、よい記憶があれば、悪い記憶に塗られてもよい記憶を思い出して・すがってやっていられるのではないのか。その良い記憶をどのように導入するか。



それはおわかりと思いますが、御察しの通り、新しい父親をどこぞから仕入れて(Mr.X)、その父親と良好な人間関係を築き直す。今度のカウンセリングでできるかカウンセラーの先生に聞いてみたいと思います。失敗ではなく、ちゃんと道路を敷いて頂いていた。


 実父は、僕の中のイメージと現物が汚染され過ぎていて使い物にならないという問題がある。それをどうするか、という前回のカウンセリングでの課題が今も残っている。僕の頭のなかに新しい良好な人間関係が築けさえすればいいのだから、実父でなくてもMr.Xで十分だと思う。

追記あり /奇蹟のレッスン: ゴルフ(2) ルディ・デュラン

追記あり
19 Mon

 作業所で、宣言して(はやく、きれいに糸を取り除く)、(結果は着物の解体の上達を望むという趣向)、やってみた。宣言自体が自分と他者にリーチをかけ、新たな気持ちで臨み取り組むモチベーションを生み出す力を持っていた。

 でも、同じ作業が延々と続き、作業自体に変更がない場合、いくら宣言してもリスタートが切れなくなり、マンネリに流されるという事が待っている。そうなった。

 どうやってマンネリを脱却するか? 今日は一つの宣言を何度も唱えたのが失敗だったといえる。宣言をするたびごとに宣言の文言(もんごん)を変えてやる必要がある。


1.はやく、きれいに糸を取り除く

2.リッパ―の使い方を上達するため、手の動きに集中する。

3.早くやるためには、作業の終盤はスピードも落ちる、手先をよく見、手先の感覚に集中し、布の感覚も捉えておく。手足の感覚、上体にも注意する。

4.きれいにやるため、全体のなかで(着物の部分・着物の全体・位置関係)の今の作業の場所を位置づけておく。

5.今の作業に前後の作業(時間軸・作業内容)を含ませて全体を見渡す。


のような思いついた宣言を、時間に沿って唱えて実行していく。遷移(せんい)・移り変わらせる。とやったらどうだろうと、希望的な思いを持った。






2017年6月18日(日)


奇蹟のレッスン ルディ・デュラン NHK




2日目


先生:ドライバーでパターの役を生徒にやらせ、カップに入れる。

  :カップに近づけて入れる方法は自由だ。



引用者:kurage0147130:

「 ゴルフのやり方は自分で自由に決めて、自分で責任を持てばいいと言うことだろ? 普通に考えればドライバーをパターに使うことなど考えないけれど、自分で決める裁量権は自分にあると言うことだ。方法選択は自由。


 普段は、自分で視野を狭く、四角四面にして面白くなくしている。頭は柔らかくした方がいい。例えば、人に話しかけるのでも、自分はこうだと自分を決めつけないで、自由な発想をするように、普段と違う頭の使いかたで話しかけたらどうだろう。違う役になってみるとか。そう、自分の中に複数の人格をあえて設定して、その人格で考えたり喋ってみたらどうだろう。」




先生:生徒に、サウンドウェッジでパターの代わりをさせる。目的は、転がすためには、当たる面の少ない薄い先端の部分で、芯に当てなければいけない。芯に当てて打つための練習になっている。

 そして、生徒の悪いショットをいかに良くするかではなく、少なくてもよいショットを大事にしていく方法を採ることをやろうとする。


先生:タイガーウッズに正しい知識を教えようとして、かえって悪くなった。タイガーは自分の感覚に成功イメージを持っていた。ゴルフは、自分でできるんだと自信を持って学んでいくもの。




引用者:kurage0147130:僕は本に学ぼうとしてきた。全部外部の力に頼ろうと。そうではない。自分の感覚を頼りに、自分の感覚の中に自信を持ち、自分で舵を切っていくものらしい。僕は変だと思ってきたけれど、本頼みの依存者だった。もっと自分の感覚を頼りに、自分のやり方を開発すればいい。






3日目


先生:ゴルフで失敗した後の悪い記憶を消せる。
  :大切なのは、打つまでのプロセス。それが打った後の気持ちに影響する。

例えば、打つ前に、ボールを最後まで見続けると宣言する。そうすると結果にもポジティブになれる。ネガティブにならなくなるらしい。


引用者:kurage0147130:たぶん、自分でやること、目標、方法を選択し宣言することで、行為に積極的になれ、関与する割合も増え、責任もとれるようになるからではないのか。失敗しても、失敗に積極的になれ、責任が持て、これからどうしようとリカバリーを思いつくからだろうと思う。




生徒:タイヤの穴に入れます。

先生:それは結果です。あなたは体のバランスを取ったり、打つ速さを変えたり、身体の使い方を変えたりできます。
(☆kurage0147130:ここまで僕は先生、生徒を書いてきましたが、正確な引用ではありません。僕の理解する内容を、僕の理解した言葉で書いているにすぎません。正確な内容はテレビを見て下さい。くれぐれも、僕の意訳は正しいとは思わないでください。☆)

 結果のためにやりたいことはなにかな?

生徒:フィニッシュをしっかり取って、タイヤを狙います。



引用者:kurage0147130:着物解体で結果のためにやりたいことは? リッパ―の使い方を磨く。正確に早くやる。とかかな?





先生:いい記憶を残せれば、悪い記憶(失敗)を消すことができる。成功した良いイメージを大切にする。


引用者:kurage0147130:ということは、悪い記憶・失敗は重要ではないと言うことだ。良いイメージを大切にしていけばいい。悪い記憶・失敗は反芻しないで、執着しないことだと思う。僕は悪い記憶を反芻、執着しすぎだから。



先生:ゴルフは1打、打つのに時間をかける。だからいろいろ考えてしまう。でも、よいイメージを持っていると、いろいろ考えてしまう・悪いことを考える必要がなくなる。





先生:

(☆ライブラリー☆):::

たくさんのクラブと状況から(☆記憶)、どのクラブを使うかを(☆決断)し、自分で(☆宣言)する。

(☆アスリート)自分の体で覚えた、自分の感覚で打つ。(☆保存☆気持ちの持ち方)失敗した記憶は忘れ、よい記憶だけを覚えておく。

 良い記憶が貯まれば貯まるほど、うまく回り出すよ。これを成功の円と呼ぶ。





先生:ゴルフバスケットをしよう。ゴムボール?スポンジ?でバスケットのリングを狙う。これは、スウィングより、軌道、どういうラインで打つかイメージする、そのイメージが最も大事だから。


先生:いい記憶をすべて合わせれば、ベストな、いいゴルフができる。



kurage0147130:ルディ・デュラン先生は物凄いです。正しい情報ばかり全部公開している。僕が見た奇蹟のレッスンの中で一番面白い。

奇蹟のレッスン ゴルフ

奇蹟のレッスン コーチ:ルディ・デュラン NHK



先生:ゴルフに、正しいやり方も間違ったやり方もない。




引用者:kurage01477130:「これは自分の鎖を切る、リミットを作らない、開けたオープンな態度を作ることばだ。先生は、カップまでの近さを競う、短い距離のゲームをやろうと生徒に呼びかけた。ゲームと言うこともあり生徒の力は発揮された。先生はドライバーを持ち出し、旗にぶつけて真下に落とす戦法を行ったけれど、失敗だった。機の横を飛び抜けて行った。

 僕の弱点は、鎖をつなぐ言葉を反芻(はんすう)し、鎖につなぐことを繰り返している。あれは失敗だった。あの人はすごかったと。そうではない。じぶんはこうしたい、じぶんはこうやろうという、鎖につなぐのではなく、鎖を切って、飛び立つための言葉を自分に向けて常に心の中で呼びかけていれば、自信が持てるかもしれない。

 英語なら、これしかできなかった。まだこの初心者の段階だ。こんなことも覚えられない。こんなに道のりは遠い。皆はすごい能力がありそうだ。まだまだだ。これは全部地面に叩きつける言葉だ。飛べるはずがない。飛ぶためには、飛ぶ言葉を選択し、反芻し、身に付け、飛ぶ見方で考える必要がある。






先生:ノートにうまく行ったことだけを記録する。

  :2本クラブだけ選んで、それですべてのホールを回るルールを生徒に課す。

  :クラブを振る力をコントロールする。75、50、25% 100%の力でクラブを振る練習をする。

  :生徒が、右曲りや左曲りのショットをどうやって打つか先生に聞いたら、先生は、そんなの必要か? 得意なのは? 生徒は低いドロー(?本当にそういったか自信がない。僕の理解は間違っていたか?)。それなら得意なのを伸ばせばいいんだよ。




引用者:kurage0147130:

「苦手なのを繰り返すより、得意なのをうまくなるようにやれとアドバイスする。よく言われることだけれど、この先生に言われると響きがちょっと違う。自分を生かす方法を採れという意味だと思う。ダメなのをうまくという、掘り下げ、修正より、アドバンテージのあるものを伸ばすという、制限をかけない考え方、ブレーキを踏むのではなく、アクセルを踏むための方法を考えよという。


 全部自分のために言い直すと、制限を外す考え方をせよ。制限を取っ払うために日常を作っていけ。

 この部分はうまく行った、こうしたらいいではないか、あの人はここがすごいと相手を高め、自分を低める考え方ではなく、あの人のここはすごいで終わらせ・反芻しない。自分はこうしたら制限がはずれるのではないか。


例えば、
テーラーSGは、洋裁の技術がある。(それに引き換え自分は何もない) ではなく、

自分なら洋裁の手縫い(※から)やっていけばいいな、(※から)ではなく、そこを取組んでどんな感じか確かめてみよう。とりあえずやってしまえ。みたいなニュアンス。すべての発想を、制限を外すために使おうと日頃から格闘すること。制限をかけるやり方はやめた方がいい。


 英語なら、これしか知らないではなく、これの表現でこんな会話ができるな。こうやった方が伝わるかなと。これも制限を外す考え方で取り組んだ方がいい。


 僕はネガティブ思考の、ネガティブ暗示の権威だと言い切れる。

現代に生きる森田正馬のことば / 建設業者

2017年6月16日(金)



現代に生きる森田正馬のことば Ⅱ 新しい自分で生きる、生活の発見会 編、白揚社、1998


p52-53

引用

「 

~ 良くも悪くも自分は自分だけであるよりほかにしかたがない、という心持ちが自覚によって定まってくると、性根がすわって、降りかかる運命に、泣きごとをいわずに服従するということができるようになる。そのときに腹がすわるのである。このときにはじめて周囲の境遇の変化に応じて、気やすく、心軽く受け応えすることができる。

 また腰が軽いということは、思い立ったことに、早く気軽く手を出して実行することであって、これは何ごとにも功利的で、一つ一つのことに労力と時間との見積もりを立て、損得を打算し、骨惜しみをして、物事を

おっくう(傍点)

に思うということのないときにできることである。つまるところは捨て身の態度ということに帰着する。


~入院中の読書法によっても、よくこのことがわかる。それは忙しい仕事の暇々に、一、二分の時間でも本の




(p53)

開いたところの二、三行でもよい、でたらめに読むというやり方である。こんな簡単なことを実行すれば、わずかの日数で、従来のように見積もりばかり立てておっくうに思い、少しも手をつけることのできなかったものが、打って変わって、寸陰を惜しみ、倒れてもただは起きぬというふうに、知識欲に駆られて、いくらでも読書ができるようになる。これは実行して体験しなければけっして想像や理論でわかることではない。

~読書に限らず何ごとにも気軽く手を出して、何も得るところがなくても元のもの、少しでも得るところがあればもうけもの、いやならいつでも投げ出す、という心持ちであるから、結局は捨て身の態度と同様です。 [V 743]







建設業者、建築知識編集部、X-Knowledge、2012(僕のは、ブックオフで買った、ヤニで黄色くなった本、ちょっと残念)


解体工 とにかく近所の人を大事にしている 村上文朗


 
045-046

引用

建物の上の階から解体機(ユンボに似た重機)で解体しながら、一階ずつ地上まで降りてくる工法を「階上解体」というんです。その階の壁を全部壊し終わったら床の一画に大きな孔をあけて、そこから解体機ごと降ろしてまた壊す、その繰り返しで下まで降りてきます。


 ― 建物によって、解体しやすさにも違いがありますか?


 ありますね。鉄筋コンクリートの建物なら、本格的な解体をする前に、ちょっとだけ壊してみてコンクリートの中に埋まっている鉄筋の本数を数えれば、その時点で解体の難易度が分かります。鉄筋が必要な本数に足りていないとか、正しい間隔で入っていないとか、いわゆる手抜き工事が発覚すると、この仕事は難しくなりそうだと覚悟します。

~鉄筋がしっかり入っていない建物は、解体機を床の上に安心して載せられないんです。解体機の重量で、


(046)

いつ足元が崩壊するか分からないでしょ?





(引用者:kurage0147130):


森田正馬の本は、読書の仕方も含んでいて、指摘された。僕はまだ腹がすわっていない。腰も重い、捨て身が足りないという言い方で、自分のことを表現できてしまうかもしれない。

 建設業者の話は面白かった。解体工のところ。手抜き工事をすると、解体工の人たちが苦労して命にも及ぶほど危険になるかもしれない。身勝手は迷惑だなんだなと思った。着物の解体を僕はやっているけれど、ミシンで縫われると壊すは大変だ。手先が器用な人は、目が小さく縫い、織り込みも小さく、端の糸を取り除くのが困難だったこともあった。

 この方と同じで、解体は、作る人のこともわかっていないとうまく行かない気がする。どう作るかの手順を理解しないと、壊す時もきれいにいかない。ズタズタならいいだろうけれど。と思うけれど、僕はまだよくわかっていない。勉強中。

専門料理 道場六三郎、銀座ろくさん亭

専門料理 2017/4、「料理界を生き抜くための三〇の言葉」、柴田書店、1400+税

道場六三郎、銀座ろくさん亭

p26-27

引用:


「 ~私は今でもたまに考えるんです。「エリザベス女王が最後の日本訪問にいらっしゃったとする。自分ならどんな料理でおもてなしするだろう?」、「もし魯山人が食通の紳士を連れて食事に来たら、何を作ろうか?」って。そうやって日頃から想像力をふくらませておけば、いざという時に臨機応変な対応ができるようになるんです。。



 料理に関して言えば、「食材が主で、調味は従」。これがすべての基本だね。鯛の料理を作るにしても、「俺の味つけで鯛を超える味を出そう」なんて了見を持っちゃいけない。調味は七分で抑えるくらいがちょうどいいんじゃないかな。そのうえで、食べ手のことを考えて料理を仕立ててほしい。



 たとえば、歳を重ねると口を大きく開けて食べるのがつらくなってくるんです。すると口の中に大きな空間ができないから、充分に味が広がらず、何を食べてもおいしくないなんてことになる。でも、ちょっと小さめに切ってあげるだけで、ちゃんとおいしく食べられるんです。作る側は、そんな思いやりをもって料理してほしいね。

~」





引用者:「この部分は、料理人として身を立てるために必要なことは? という質問に答えられた内容ですが、刺激的で、想像力があり、頭が柔らかくなります。僕は料理人の方から学ぼうと思ってこの本を買いました。しっかりした本(雑誌)だと感じています。」

カウンセリング 父(きょうじんと呼んでもいい乳 titi(father・僕の父と言うことになっている人)≠milk )


2017年6月14日(水)

・ 6週間ぶりのカウンセリングを受けた。間があき過ぎていて、あまり乗り気でなかった。

 どうも進展しないらしいという気持ちがしたので、あいだを空けることになった。

 カウンセリングを休んでいた間の報告を文書で読んでもらって、きょうは、父との関係が取り上げた話題だった。問題のある父。





 始まりは、自分に自信をもてない、尊重できない、劣っていると感じている原因はどんなことか? みたいな質問からだったが、正確に思い出せない。


 いつから自信がないか、尊重できなくなったか、過去のことで何かないかと聞かれ、思い浮かんだのは、父に幼稚園の頃、後ろからプールに突き落とされたこと。

 一方的で突然で、何が起こったかわからなかった事を話した。父にどうしたいと聞かれ、何も浮かばなかったが(父は話が通じる人間ではない、妖怪だと言うことです)、蹴飛ばしたいとだけ答えた。カウンセラーの先生はもっと蹴飛ばしたいとか何かないかと言われたが、何かして通じる相手ではない。相手は人間ではないのだから。


 それで、カウンセラーは方向転換した。父を天からのエレベーターにのせて教育させて改心させるというアイデア。その変わった父と話して、野球のキャッチボールをしてみたが(父とのキャッチボールはすべて押しつけで、コミュニケーションなどではなかった、上からの抑え込み)、変わった父と言われても、父は怪物なのだからキャッチボールが成立するわけがない。やり取りしても熱は入らないし、焼き直しは成立しなかった。たぶんカウンセラーは、父と新しい関係を持たせようとしたのだろう。僕の側だけでも。しらけた。

 この作戦はタイムアップもあり失敗に終わった。今度の時は、EMDRの焼き直しになるかもしれない。そのような方向を先生は仰った。




・ 今回のカウンセリングは失敗だった。本来の意味では。でも、父とのコミュニケーションは成立しないという、改めて認識させられた。父との関係を変えるというより、新しい父を導入しないと、別人の父との関係を構築しないと、父という存在の焼き直しはあり得ない。と思うが。僕の本当の父は、歪んでいるので、狂人と呼んでいいと思う。


・ 今回のカウンセリングを終えて、なぜ母は父を見限らないのか、その煮え切らなさに疑問を感じる。その母の優柔不断さに恩恵も受けてきたが(調子の悪い時期を楽に過ごさせてもらった。もし別れていたら、矢面に立つ僕はかなり危機的な状況に追い込まれていたと思う、僕は十分甘えた、大甘だった、腰砕けのコンニャクでやってきた)。


 父との関係を見直すというのは、清算すること、父を見限るために行うのが正しい正面突破だと思う。心の中だけでもやり直すことはできない、自分の側の書き直しだけが選択できる。父は異常者だと断言できる。まあ、僕も異常でないと毎日回せない状況で生活している(作業所への通い、まわりの圧力)。



・ おかしかったのが、いままでビルの光が差し込む部屋でやっていたのが、6週あいだを開けると、別室の光のない、閉じ込められた小さい小部屋に案内されたこと。どこでもいいのですが、かねの力はすごいですね。金には頭を下げ、ひれ伏し、靴の裏でも舐めあげないといけませんね(時計じかけのオレンジ、一場面)。
僕はマインドフルネスで打開しようと思ってやってきたけれど、カウンセリングも一枚噛んでおきたいと思った。こちらの方向で打開される可能性もあるのかなと、思っている。

追記 /時計じかけのオレンジ 悪人として出発

追記

 幼稚園の時、母に抑圧したのは、母を したいという気持ち、悪人の気持ちだったのかもしれない。
そう思うと、胸のあたりに抑圧が姿を現しそうな気がする。霧が雲となり、はっきりと雨雲の形となるように(科学的でない、胡散臭い表現)焦点を合わせ、抑圧として立ち現れる気がする。僕は幼稚園の頃からろくでなかったのだろうが、幼すぎて、自分の気持ちをごまかしたのかもしれない。
そうなったからといって、何も変わらない。ただ、自分の本心に気づき、そういう人間として登場し、自分の気持ち・本音を立場上表明するだけだ。行為が伴うわけではない。
僕は悪人なのだろう。根っからの悪人かもしれない。そうなのだろう。悪人なのだ。

寝ようとして気がついた。




2017年6月10日(土)


時計じかけのオレンジ a clockwork orange キューブリック、終わりの方まで見てきた。



 3度目に見て(2度目は17年位前・レンタルビデオ・モザイクあった、最初はジャブ70ホールのレイトショーだったのか?・封切に近い時期・ちょっと後か? に見たのだろうと思う)、
僕は悪人だという認識に切り替える必要を迫られている気がした。


 僕はブログでも善人ぶって書いてきたが、アレックスの罪悪の数々と反省のなさには自分を悪人だと書き換えないといけないだろうと映画に言われている気がした。それは、アレックスと僕が同じ性根の人間だと思えるから。





 アレックスは、映画最初の40分くらいの間にひどいことを数々行う。そして捕えられ、洗脳され、因果応報の罰を受けることになる。

 自分の犯したことをことごとく責任を負わされる後半の場面は、ここを書きたいからかと思わせるように圧巻だった。僕が調子の悪い時に見る夢のような調子の場面がずっと続く。悪行の責任を取らされていく。僕は見ていて、気分が重く、胸も苦しく、嫌な気分になった。夢での氏ぬ場面と似ているから。

僕は現実世界で悪いことをたくさんして迷惑もかけてきた。世間の人に嫌な思いもさせてきた。だから、現在の自分の攻め込まれる危険と窮地はアレックスの危機の場面と同じで、僕の罪業の責任と言えなくもない。僕は現在怖い。人間が怖い。不利だから攻め込まれる危険を負っている。



 自分のやってきたことの責任を負うという意味では、悪人と自分を認識し直して、悪人としてやっていく方が正面切っていると思う。善人とするやり方はごまかしていると思える。責任逃れでもある。





 僕の止めている場面から先では、アレックスの洗脳は効いていなかったとなったと思った。転向していない。改心していない場面があったはず。アレックスはまた罪を犯し死刑になるという場面が続くというのが僕の想像する所。その場面はないけれど僕が書くとしたら入れたい場面。死んで全うするしかない。アレックスはそういう男だと思う。でなければあいつは統一性がない。



・ 今日は織り教室に出かけたけれど、不評だった。当たり前と言えばそういうことになります。

7 Wed 猫・カラス /悪い夢

7 Wed

・ 猫のうんこ掃除やってきました。2回目なので、ブルーな気分になりませんでした。ただ、通勤時間帯と重なり疲れた。(車内は混んでいた)

 交流ルームのほかに、猫部屋も掃除した。今日は女性二人と僕で3人体制。あと、ボスが指揮した。猫と交流する機会ももてるのだけれど、行使しなかった。使わなかった。

 交流ルームでは、猫のやつ、またぶつかってきた。猫のやつらは、勝手気ままな性分なので、気分で動いていた。食事する猫は、首を前後にグッグッと揺らしながら、四肢を踏ん張って食いついていた。飲み込んでいた。あいつらも食事のときは集中して、取り込み中という態度で専念している。

 最後に、ボランティアの女性は、ねこじゃらしで、猫と遊んでいた。猫の奴動くのが大好きで、棒についている紐の先のじゃらしを喜んで追っかけていて、猫らしかった。猫らしい仕草をしていた。

 1時間15分くらいかかった。今度行くときは、替えの靴下を持っていこう。汚いなあ。

 


・ この動物愛護団体まで行くまでの道で、400メートルくらいをカラスに狙われた。20回位頭めがけて2羽で飛んできた。首が潰れていたので、なめていたのだろう。僕はまったく取り合わなかった。頭にぶつかったのもいたけれど、無視した。最後はどっかにいなくなった。調子がよければ手を出してぶつけたかもしれないけれど、昨日の低調続きでそんな気分でもなかった。

 腹も立たず、ただやり過ごした。僕はまったく反応しなかった。あいつらは面白かったかもしれないが、後ろから飛んで僕の頭を目がけるという遊びが、僕は少しも動かず放っておいた。

 世間の人は、アホかいなとみていたかもしれないが、カラスに気を遣うという無駄はなかった。僕の完敗です。



 猫のうんち掃除も、猫を飼うという人間の人間活動です。と思った。



6 Tue


 今朝夢を見た。執拗に追い回され、小突かれ、氏へと追いやられる役だった。こういう夢を見る日はダメと決まっている。

 作業所へ出かけ、歩きだして、足が止まっているのに気付いた。不利なので、首を伸ばそうと試みた。首が潰れていたので。ある程度成功した。こういう夢を見る日なので、借りたきた猫のように今日という日を送った。小さく小さく縮こまっていた。

 作業自体は普通にできた。この辺が出来て安心した。後手後手になるかと思った。最近正規の皿洗いをやる人が休んでいて、僕がやっている。たぶん今日で終わり。皿洗いという、人間の食事の後片付けという役目をやった。人間活動です。

 明日は、猫のうんちを拾いに出かけます。動物愛護団体。2日目です。今日が調子の悪い日だったので、明日は何とかなるだろう。休みの日のうんち拾いは、ブルーな気分でスタートしそう。まあ、猫が飼える資格だと思ってやろう。

 プリンスのコントラヴァシーを聞きながら。


 とても小さく僕はなり、芥子粒(けしつぶ)のように背中を丸めて今日は暮れて行った。ああ、万歳。一年を送る上で、必ずみる悪い夢。今年もやってきた。悪い日があると言うことは、いい日もあるよ。一年を均(なら)してトータルでなんぼよ、という話しなのねん。人間けっこう揉まれて、ハードで、今日は死ぬことはなくて息をすることが出来た。周りに突っ込まれるかと冷や冷やした。

小心者としてポケットに手を突っ込んで、下を向いて、うなだれて、萎えて、細々と、丸まって、べそをかきながら、涙を流しながら、涎を拭きながら、屁をどこでしようか周りに人はいないからいいか、とやっていくのさ。

5 Mon /3/生と死の思想 森三樹三郎 ・ 汎ペニス作戦

5 Mon

 マインドフルネスを習える適当な先生が札幌にいないので、今のカウンセラーの先生にお願いしたいと思った。頭を下げて、よろしくお願いします、とやってみたい。
 ヨガの先生には習いたくない。(偏屈・意固地なポリシー)


3 Sat

追記


生と死の思想 森三樹三郎 は日本の古本屋でも買えるよん。数は少ないです。

www.kosho.or.jp




2 Fri

・生と死の思想 森三樹三郎 人文書院 1990

目次:

日本人の人生観、
老年と死、
「足るを知る」ということ、
迷信と生活、
死の象徴としての阿弥陀仏
運命と摂理(中国における弁神論の展開)、
天命と人生(中国思想における超越と内在)、
仙人の道、
編者あとがき




○生と死の思想 森三樹三郎 人文書院 1990

死の象徴としての阿弥陀仏

p147~149

引用:



 「絶対無限者」を「死」とよぶ場合には、語弊の一番大きなものは、普通常識では死は生に対するものであり、相対的なものに過ぎないということであります。そして常識では、死は「生の否定」「生の断絶」であり、「薄暗く、悲しく、恐るべき世界」として捉えられております。これは、我々が生という局限された立場に立つ以上、真に己むを得ないことであ

(p148)
ります。


 死の象徴としての阿弥陀仏

 生という立場から見た死は、あくまでも対立者であり、生の恐るべき破壊者であります。~

 しかし、よく考えてみれば、「生は瞬間のもの」であり、「死は永遠のもの」であります。

(p149)
~ 
 そのように零に等しい「有限の生の世界」に対して、「無限の死の世界」を対立させることは、もともと大きな誤りを犯していることになります。
 
 我々人間は、無限の死の世界から生まれてきて、ほんの瞬間の生を経験し、再び無限の世界に帰って行くのであります。この無限の世界を生の否定とは考えないで、むしろ「生を包みこむ」として捉えるのが浄土教ではないかと思います。

 その意味で、浄土教は死の肯定の宗教であり、浄土は死の世界、阿弥陀仏は死そのものの象徴と見ることが出来ると思うのであります。

(p150)


引用者:kurage0147130:

 とてもおもしろかったところを抜粋しました。死から生まれて死に帰るという、ゼロから生を体験しゼロへ戻るという、整腸作用のような、とてもすっきりする見方だと思った。今のところこれを採用して生活したいと思った。

 死を生の対立として描く見方は、硬直し柔軟性がなく執着的だから、このような見方は自分へのこだわりを捨てさせるというか取らなくさせるいい見方だと思った。

 死ぬというのは土に還っていくような、大きな流れのなかのひとつの体験だとは言えないか。死を脅えるような硬直した見方は、僕の見方は嫌だな。大いに読んで影響を受けました。




kurage0147130:

「汎ペニス作戦」

 昨日のリコーダーからやっていたけれど、リコーダーをペニスと見たりする見方。よくギタリストがやること。

 僕は性を抑圧しているので、いままで、僕自身がペニスになろうとしていた。

 それと同じだけれど方向を変えて、世界はペニスで満ちている。抑圧者の僕は、世界のペニス、無数の世界のペニスに触れること、世界のたくさん存在するペニス=僕が抑圧しているペニスだから世界に満ちているとすると抑圧の解放になるかと思った、そいう方向にすると前進するかと思った。

 という、汎ペニス作戦で行こうと思った。作業所でやって、織り機の杼(ひ)をペニスに見立て、経糸をヴァギナとみていたらしく、厭らしい手つきになった。不興を買ったかもしれないが、今日はしょうがなかった。とりあえずやってみるしかない。

31 /27/敗戦

31 
 図書館で30分くらい読書した。全自動パン焼き機で全粒粉を焼いた。リコーダーを吹いた。

 キューブリックフルメタルジャケット見終わった。どういうものがつかめた。手動で全部動かし、いつ死ぬかわからなくて、ただ歩く、悲惨だった。何もわかっていない者の感想だけれど、幻想を抱かなくていい映像になっていた。もっと悲惨だとは思う。精神はやられると思う。失礼だが、おもしろかった。怖いという意味で。精神状態を変えないと、あそこでの生活は成り立たないだろうと思う。よくわからないのに、ここに書いた。





27 Sat

こちらで活動中


kurage0147130-2.seesaa.net





5/26 Fri


 敗戦


 今日は調子が悪く、まず握力が不足していた。作業所でも小さくやっていたが、立場が悪く、父のペニスをリッパ―で刺すイメージから導入し始めた。


 そして波に乗れ出したので、手早く作業を進めた。その意味では最低の日ではなかった。何とか皆に食いついていった。ギリギリセーフという所。僕は、下降期に入ったと日報に書いておいた。でも、自分の中では諦めた。


 今日の、一瞬、一日、一時でいいからやれればいいやと思った。マインドフルネスです。


 ずっと作業所にいれなくなっても、やめても、早退してもいいやと思った。そういう時期に来たかと思った。刹那ではないけれど、一時に賭けようとして、皆のペースに追い付いていった。生きるとはずっと同じことが続くではなく、いまその瞬間に賭ける、この時この場所、なのかなと思った。テーラーSGはいつも通り飛ばして先頭を走って作業を行っていた。僕は頭が上がらない。いつもダラダラやっているので。

 生きるとは、今がずっと続くのではなく、刹那のように、その瞬間に全部賭ける、全力・瞬間・場所なのかもしれないと思った。




 僕はいつもだけれど、窮地に陥り、苦しくて、苦肉の策として思いつくことが核になったりする。今回も生きること、マインドフルネスを経験した。風化しないようにできれと思うが、怪しい。僕は甘ちゃんだ。



 帰りの交通機関では、攻め込まれそうだったので、肘を押されていたので、父のペニスを握り潰すイメージで怒りを盛り上がらせ、相手にぶつけた。最後には、相手は嫌がったようだった。あまり食いついてこないようだった。それでも、後ろから来られると困るので後ろを振り返りつつ歩を進めた。怖いわけです。





☆☆☆ そう、今日の作業所は、最初から皆が怖かった。攻め込まれるのではないかと。僕は臆病に、皆を怖がっていた。でも、立場が悪いので、逆転する意味で父のペニスをリッパ-で刺すイメージで作業を進め、ペースをつかむことができた。窮地を脱した。




 今日は何とかなった。明日はならないかもしれない。攻め込まれるかもしれない。でも、明日のことはいい。明日は死んでも諦めるしかない。その辺を割り切らないと乗り切れない気がする。今日も作業所で、皆に刺されても文句は言えないと思って割り切っていた。

25 /24ボランティア猫/捕捉


25 Thu

 昨日は調子が悪いみたいだったけれど(ボランティア以外何もしなかった)、朝から猫うんちの世話は強烈だった。休みという幻想も消えた。

 今日になって振り返ると、猫の下の世話ができると言うことは、猫が飼えると言うことだ。僕がそこに通って身に付ければ、猫を飼う資格が得られることになる。

ボランティアに行くことは、猫が飼えることができるという力を得ることになる。でも、それ以上でも以下でもない。ただそれだけ。

 今日は草取りをした。(昨日はしなかった) 草取りができる。庭の管理の草取りができる、と言える。


 こういう小さいことの積み重ねが自信になるのかなあ。 



q







 最近、少しずつ森田正馬を読んでいる。なりきる、とかいうもの。


寒いときは寒いとかじかみ、病気になれば熱を出しうんうんうなる。寒さから逃げようとかそらそうではなく、寒いなあと、寒さになり切る。熱を出せば死ぬかではなく、苦しいなあと身悶えする。

そういうなりきりの大事さ、ずらすのではなく、そらすのでもなく、苦しいままにいる。そういうやり方を読んでいるところ。、


 僕のやり方と違う。僕はずらそうとしたり、すぐよくなろうとする。そうではなく、保持してそのものになり切って、そのままでいる。小細工を施そうとしない。心の持ち方の勉強か? 読んでいて、心の使い方が書いてあり、心地良いから読んでいるのだろうと思う。

 神経症(強迫症?)の人のためだけのものとは思っていない。僕にも有効だと思っているので。



24 Wed


 動物愛護団体のボランティアの初日に出かけました。



 朝9:00集合なので、5:35分に起きました。遠い所に現地はあります。



 猫の世話なのですが、任されて期待されていたのは、うんちなどの排泄の後始末です。

 ☆ 若い猫3匹くらいと、でっかい古株猫一匹・こいつは檻の中から出ないし動かなかった。これらが僕が担当した猫たちでした。若い猫は活発だった。




 最初からうんちを集めることから始まりました。猫が新入りの僕を気に入らないらしく、ぶつかってきます。コイツ縄張り主張かあ。とおもいました。


 猫のおしっこの砂の処理もやりました。猫はおしっこをするので砂を敷いてやる必要があるらしかった。それを捨てて、消毒スプレーをして、トイレットペーパーで拭き取って捨てるという作業です。

 床をモップみたいな、4隅を押して止める紙で拭くモップで拭いて、コロコロで敷物の喧嘩した猫の毛を取り除き、ゴミを捨てて終わりです。自動走行ロボット掃除機も使っていました。1時間くらいの作業でした。




 僕にとってはフローリングに膝をついて作業するのは結構きつかったです。結構大変だった。今日は触れ合いとかなんとかはなかった。期待していたわけではないので織り込み済みでした。その場で手を洗わせてくれなかったので、公衆トイレで洗いました。




 うんち処理班としてのボランティアを完了してきました。今度行くときは覚悟が要ります。本当のボランティア作業だったので、甘い夢の入り込む余地がなかったからです。





 猫を飼うということがどういうことかハッキリわかりました。排泄の世話を毎日してやるのがずっと続くと言うこと。本当に好きでないと務まらない。メダカより大変な作業です。まあ、猫一匹ならそれほどでもないのかな?
 
 続くかどうかわからないけれど初日は終わった。猫のチッコイうんちもよく見て、スコップで集めてきたし、猫くんたちが元気にしているのも見た。作業している間、近寄ってきて、僕の手を触ろうとしている猫もいた。帰るころには、僕など知ったことではないというように興味を失ったようだった。やつらは猫だし、一匹狼(猫)だし、どんな環境でもやっていくだろう。


 スタッフ同士の会話を小耳にはさんで聞いていたら、膀胱の調子が悪くて食事をしない猫とか、心無い飼い主の飼育放棄のことみたいだった。現実に動物愛護団体が活動するというのは、猫の世話と、飼い主と、殺処分の役所といろいろやりあっていく大変さがあるようだった。想像はついていたけれど、それを担ってやっている人たちが現実に活動していた。それのちょこっとを僕も齧らせてもらった。



・ 家に帰ってきてから、目立ったことは何もしなかった。明日から作業だ。母が餃子を作り、僕は手を切っているという理由で参加せずアシストだけした。家の餃子はうまかった。母の餃子というべきか。








5/23 Tue



 朝早起き(5:35分起床)して、草取りをして思ったことは、できるという思いは大事だというもの。


 今日で草取り連続3日目になった。身体も慣れてきた。僕は草取りをしていて、草取りしかできない、庭作りとかではないと考える。でも、今日感じた、草取りができるという思いは大事ではないのか。主治医にも、これしかできないと思うのと、これだけできると思うのでは違うみたいに言われた。カウンセラーの先生にもできると思うことの大事さを説かれたことがあった気がする(忘れてしまった)。自信を持ってよいようなことはよく言われていると思う。


 草取り技術は70%くらいだと思っているけれど(割れた爪を引っ張って血を出して、治りかけ、それで力が指に入らない左手)(草を両手で取ったとしても、改善の余地がまだたくさんありそうだと思っている)、草取りができるという気持ちは自信を持って主張していい内容だと思う。


このできるという思いを中核に据えて物を見ていいのではないのか。僕は、できない、これしかできない、を中核に据えて物を見ている。これ良くないよね。これこれのことができると、絞り込んでいいと思うけれど、その絞り込んだ内容は何%でできると主張していいし、自信を持っていい。






○13歳からの頭がよくなるコツ大全、 小野田博一、 php、 2014

 Ⅱ部 作文のコツ を図書館で読んできた。まだ途中。


 思ったのは、僕は自分でわかっていることを周りもわかっているという前提で書いていて、そして主題の主張を周りの部分で支えて主題を描ききることをしていない。

 説明が足りないのに、周りにわかっているはずだと、主張してないことを暗黙の理解として読む人に押しつけて1人満足している、ひどい書き手であるらしいということ。結論を書けば理解してくれると思い込んでいて、説明を怠っている。





それで2001年宇宙の旅 捕捉してみました。


○ 進化は、黒いドアが磁力を出して促すらしい(人間の祖先に対して、そして月へ飛んだ人たちに対して、最後には木星に向かった主人公に対して)。


 僕は、人間の進化を説明するのにドアに担わせたのはSF的で面白いと思った。はっきりしていて、即物的で、謎をドアに込めることができて、このドラマチックな進化という得体のしれない人間の理解を超えていることに、SF的に回答を与えて謎めいてぼやかすことができた。宇宙人もほのめかしているし。


 正直に言うとちょっと嘘くさくないか、とも思う。そんな単純か? 宇宙人? 黒いドアに謎的なものを担わせる無理がないか? そんなことも思う。


 人間の祖先の猿を、同じ仲間の違う部族・黒ドアの進化エネルギーを受けた道具を使い始めた進化猿が殺すという、ショッキングな暴力で進化を描き、道具を使うことで優位を得たとする説明も、おもしろいけれど嘘くささを感じる。


 ここには道具を使う部族猿に力・パワーを得たとして力関係の優越を与えている。確かに競争するから力の強いものが優位に立つというシンプルなものだ。権力を道具猿に与えている。でも新聞で読んだけれど、ゴリラは知的に劣ったゴリラの子どもの面倒を見ると書いてあったぞ。本当に力が強いことや、道具を使うことが勝利に結びついていいのか。もっと福祉の面がゴリラにもありそうだぞ。弱い者にも渡りをつける集団的な横のつながりはなかったのか? 映画では水を巡っての利権争いだった。仲よく譲り合う側面は人間の祖先の猿にもあってもよさそうだが。納得できないのは暴力を解決力に描いていることだ。暴力万歳には納得できない。





○ 命の循環は、猿の進化、最後の主人公の老化の場面。

 猿は道具を使う強い猿が生き残っていき、その種族の子どもたちが僕たちになるという命の循環がある。最後の主人公も黒いドアに向かって指を指して文字を書く?(そんな仕草なかったっけ?)、とにかく指を黒ドアに向けていた。あの主人公の子どもが胎児になって進化して次の人類になるという仄(ほの)めかしだと理解した。


 命が次の命にバトンタッチし続ける、命の循環がある。この不思議さも言葉で説明できることの枠に収まるものだとは思えない。その部分を映像で描くとああなったのかもしれない。命というエネルギーは、ことばでは描けないと思う。そこを神秘的に映像化したのだろうと思う。




 話は違うが、個人の命は関係者には大事でも、命の値段として見た場合、集団の中の部品としての値しかつかないと思っている。蟻を一匹殺してもたいして変化はないと思う考え方。でも、僕はそのアリの命と僕の命は等価だと思っている。僕は蟻を殺すが命の重みは優越を与えたくない。






○ 死は、宇宙船内のハルに殺された飛行士、そして主人公の死。


 人間がコンピューターに殺されるという、ショッキングさ。ここも暴力が描かれる。コンピューターが力を発揮する。権力を持っている。権力が強いものが弱いものをいたぶるという構図。弱点はあったけれど(マニュアルで主人公は宇宙船に戻ることができた)、コンピューターに対して力を持たせたあの描き方は古くないか? なぜ共存できない。男の論理ではないのか? すぐ権力と力を持ち出す。なぜハルは傲慢になるのだ。常に横につながりを持たせる描き方もあってもいいはずだ。マッチョ的でないのか。





☆ 宇宙船が、死と権力が渦巻く祭祀の場所に見えてきた。宗教のように思える。あの無機質で簡素化された内装。白で統一されていた。暴力が振るわれる船内。密閉された中での殺人。ひどく創造的ではないように見えてきた。エネルギーが満ちていない。死の臭い。

 キューブリックがマッチョな人だったのか。面白い映画だけれど、主題は古臭い気がしてくる。



○ 道近美のスビアウレ兄弟の絵の顔の模写ですが、僕は、外国の人の顔を描いてはいますが、この顔の模写に命の重さを感じています。人生の重さを感じる。生きてきた、60年とかの重みがあるように思う。辛いこと、苦しいこと、楽しいこと、悲しいこと、このような背負ってきたひとの人生を感じる。

 自分の歩んできた、平坦ではない重さ、をこの絵の主人公たちの顔にも感じる。僕は、自分を投影させて絵の主人公の顔に共感を重ねたのかもしれない。邪道かもしれないが、共感した気分になったことは確かだ。

 絵の中に見られる他者の人生を、他者の人生として見たのではなかったのかもしれない。そういう意味で、邪道かもしれない。

22 Mon /20雑記

22 Mon

 図書館へは最近寄っていない。調子がよくなく、余力もない。


 草取り2日目をした。





・ 今日の帰りは非常に調子が悪いようだったが、ピンチはチャンスという言葉があるように、父の映像とペニスの映像を頭に描いて対抗した。この2つがキーになる部分だと思った。実際使える気はした。他の人の圧力にこの2つの映像を思い描くことで対抗させ、拮抗させた。このイメージが僕の抑圧に関係していると踏んでいた。

 調子の悪い日は全くダメだとは思っていない。何かの部分が引っ掛かってくるチャンスだとは思っている。バタバタさせて、必要な部分を掬(すく)い取ったと思っているが、思い込みが多すぎるかもしれない。






・ 作業所の椅子の配置が変化した。僕は中枢に近い場所へ移動になった。たぶん今度は端に飛ばされる。研修生がいなくなったらすぐ移動かもしれない。僕に席決めの権利はないので、なすがままになっている。情けない立場であります。無力を感じさせられる。

 この席になったので、自分を磨くいい機会だと思って、揉まれて、人間に揉まれて、自分を練(ね)ろうと思う。苦しい席だという気がする。


 2連休をもらった。1日は有給を頂いた。ありがたいです。 



o


 道近美で、スビアウレ兄弟の絵を見た。前は、ラモンの絵がよいと思ったけれど、バレンティンの聖アンヌの祭日もよかった。

 この兄弟の絵がとても好きだ。下のリンクは違う絵だけれど、ヴァレンティンの絵。


 顔に人生が現れている。その人の生が凝縮されて浮き出ているように感じられた。

 


www.museoreinasofia.es



 今日は、大原美術館展Ⅱはちょっと覗いただけで、(僕は障害者手帳を持っているのでパスできる・上の絵は大原美術館展Ⅱの作家の別物)、



近美コレクション 展を見てきた。

 三雲祥之助の、サンシール・ラ・ポピー風景が印象に残った。検索したけれど、載せたいのがなかった。

 ユトリロはすごかった。絵の中に家並みがあった。確かに建物が存在していた。今日は、シセイ・アン・モルヴァンという新しく見る絵も見た。もう一枚は前に見ていた。ヴラマンクも好きだ。黒のグリグリがトレードマークだと思っている。







雑誌の、ブランド undercoverのファッション、高橋盾(たかはしじゅん) は物凄いと思った。こういうのも発想し許されるのだと思った。人間の頭に描かれるのは何でもありなのだなと。すごく独創的。と思った。

www.youtube.com


 
stanley kubrick , 2001 a space odyssey を見終わった。2001宇宙の旅

 黒い板っ端(いたっぱ)が進化を起こし、命の循環に関わっているようだという、理解をした。モノリスというらしい。特典映像で覚えた言葉。大道具さんと小道具さんが頑張ってあのすごい無機質で機能美のバックができたのだと思う。

 ハルに人格を感じ、対話できる不思議さを感じる。ペッパーは人間的ではないけれど、ハルには人間味を見る。殺意まで起こして、自分の存在を維持しようとするところなど。

 言葉で言えない、進化、命の循環、死を映像で描いたというのでしょうか。

 僕にとって、宇宙人は今のところ興味がない。出て来なかったけれど。


 人間の祖先、ゴリラみたいのも、愛くるしかった。かわいい。叩いて殺害する場面はえげつないけれど、道具を使う最初としては、優越を示す場面としては、すごく印象に残る。動きがすごくいい。役者の人はかなり頑張ったんだろうな。


 主演俳優はもちろんよかった。特典映像では、御歳を召されていた。残酷ですね。僕も死のカウントダウンは入っているような気がする。80歳で人間はほとんど死ぬし。残酷だ。


 でも、死を終わりとか、切れる、後がない、あの世と、冷たく切り離されたものという捉え方は、千の風みたいに古いかもしれない。良いイメージを描く権利はありそうだ。そうしたいと望む。


 土の上のタンポポをスコップで掘って抜いて歩いた。それだけで、30分以上かかった。早起きして草取りできればいいが。週2では、維持は無理だ。毎日の継続が必要。と痛感した。実行できるか怪しい。9:30に寝て、5:30起床を目指したいところです。
 そうなると夜がコンパクトになる。ギュウギュウ詰め。できるかあ~??~??。