悪い行いを光の道に置き換えたい:宗教的考察 (アレルギーを感じますか?

 まずですね、職場環境が悪化しています。人が1人抜けただけで、みんなの負担が重くなりました。時給は上がらず、時間外も増えず、仕事量だけが増えました。

 僕は今日、入居者さんで邪魔する人がいて、先回りしてトイレを占領されるのですが、それに対して怒ってしまった。首切断とかイメージしてしまった。これは怒りに任せて余計な行いをしたことになる。しかも、怒ってしまってやらなくていいことまでイメージした。これが宗教で言うところの罪です。

 僕は黒人の方々の教える英会話教室に通っています。先生方は留学生で大学で学んでいる。その方々のアルバイト先です。彼ら、先生方は皆クリスチャンです。なぜかわからないけれど。僕は英語と日本語の載った聖書、小っちゃいのをもらった。どこを読んだらいいか尋ねて、そこを読んでいる。次読むところも教えてもらった。

 その聖書の、3回目に教えて頂いたところが、
ephesians 4: エフェソの使徒への手紙 4
31. 無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒にしてなさい。

 という下りです。この章は、暗闇から光へを説いています。僕がキリスト教を信じるとするなら、この暗闇から光へを信じたいからです。難しい事や立派なことのためではないです。

 僕は首切断などと言った、物騒なイメージを持ち出している。怒っている、憤っている、呪っている、このようなことは辞めたいと、この部分を読んで思った。これら暗闇の罪をやめたい。これを実践するため聖書を読みたいと思った。
 宗教と聞くと拒否反応を持つと思う。しかもキリスト教です。これは僕自身の宗教へのイメージと思いです。でも、イメージより、実践するために聖書を読みたい。
 僕は本当に暗闇を辞めたい。暗闇と指摘されたし、それは正しいと思う。辞めるのも正しいと思う。心の弱い僕がキリスト教に頼って、これらキリスト教の説く罪を辞め光へと歩めるなら、キリスト教者でもいいと思うようになった。

 今日はベンチで、聖書をめくった。曇り空だけれど、紫外線の降り注ぐ中でだった。(肌に染みた)

 僕は献金したいわけでも、立派になりたいわけでもない。妄信したいわけでもない。ただ、自分が暗闇にいるという自覚と、悪い癖、罪を辞めたいからです。

 
 同じところ、5. 1-2の書いてある、愛によって歩みなさい。という言葉は、暗闇を捨てて、愛に生きることを説いている。
 僕自身に照らすと、首切断という罪を捨てて、光の愛の道に置き換えることを説いていると思う。暗闇を捨てるために、愛というキーワードを使い、愛に置き換える。暗闇の行いの道を捨て、愛の光の道を歩もうとする。これが僕にとっての宗教、キリスト教です。

 皆さんは宗教を実践しようとする、僕をこいつもか、宗教という胡散臭い目で見るでしょうか。僕は、今を、現実の暗闇を光の愛の道に置き換えるために宗教、キリスト教をやりたいし、今現在行っている。入信とか何とかではなく、もうすでに実践の中にいる。僕は辞めたいことのために、宗教をやりたい。キリスト教をやりたい。

::イエス様、弱い僕を助けてください。光の愛の道へ導いてください。と、暗闇のイメージに心が占領されそうになったとき唱えて、乗り越えようとすることのどこにアレルギーは存在するのか。僕は自分の弱い心を罪の暗い心を乗り越えるために、イエス様と呼びかけ、そっくりそのまま、暗闇の道を愛の道に光の道に置き換えたい。自分に負けていられない。