理想の父母ではなく、そのままの父母を受け入れるべき時が来た。

先生、よろしくお願いします。

 今週も施設、交通機関とも攻撃と言うキーワードでくくれる状況になりました。それは、僕の調子の悪い日、月曜・金曜日に多発します。

 昨日は、作業が終わって食堂で食事中に事務の女性が来て、紙を捨てる音、食器を片付ける音、その他でバカ騒ぎに僕への当てつけ音で満たされました。僕はこれからその人を、心の中でアバズレと呼ぶことに決めました。そうでもしないと割に合わない。

 昨日の入居者さんの空間では、僕は最初、モップを絞るバケツで大きな音を立てて絞っていた。それは、皆が僕を敵視し、排除する空気に覆われていたから。これは僕の当てこすりだった。けれど途中から悟り・さとり ました。


 それは、確かに、入居者の一人のお婆さんは、机をバンバン叩いて僕への当てこすりをその前に盛大にしていた。けれど、僕を嫌ったり排除しようとするのはその人のやることでその人の選択権下にある。だから僕がどうこうしようとするべきことではないと。そこから父母のことも思った。父母は僕を愛する能力と言うか力を持っていなかった。今回のお婆さんも、父母も、僕は自分の理想を押し付けていた。
 それは、人は僕を愛してくれるという理想像。それを満たさないので父母も他人も僕は認めないというか受け止められなかった。
 現実には、そのおばあさんは僕を嫌っているようだし、もしくはストレス発散のお人形なのかもしれないけれど、それと父母も僕を愛する能力に欠けていたというもの僕が受け入れるべきことで、僕の希望を父母に押し付けようとした僕は幼かった。

 父母は父母なりの愛はあったろうが、僕が欲しかった愛、受け入れは持っていなかった。そのことに対して僕は拒絶し自分内引きこもりになったと思う・内向というやつです。でも、実際の父母は僕にあまり興味はなく、僕の求める愛し方では愛そうとしなかった、もしくは能力を持っていなかった。これは僕が受け入れるべきことで、そこらの人にはよくあるパターンで目新しくもなく、世間では普通だと思う。僕が父母に対し希望、理想の愛を持てと押し付けただけの、僕の側の誤りだった。世間の人はもっと父母に早くから見切りをつけ、外の世界と折り合いをつけるのが上手いのだろう。
 僕は、北朝鮮の理想郷みたいに、ユートピアが好きで理想の父母を求めてきた。そんなものは世界にはないし、父母がなくなった今、父母にいくら期待しても得られるわけがない。死んだからか父母に見切りをつけるべき時が来たのかもしれない。
 理想を求め続けるというのは、現実を直視していないし、害こそあって一利もない。
 僕は愛のない父母と言う存在をそのまま受け入れ、父母以上のものを求めようとしないことが大事だと思う。父母なりの僕への愛はあったわけだし。僕の父母もそこらの父母と同じように理想ではなかった。僕のこと踏ん切りの悪さも凡庸な事例だろう。他の人はもっと早い段階で踏ん切りをつけて見切って別れを告げていると思う。父母も僕も凡庸な家族で、僕の未練がましさも世間の一例に分類されると思う。

 今週も調子の悪い日が多く、殴ってやるというのを持ち出したそうな男が多かった。僕の側は、他者に対して理想を押し付けるのを止めて、その貧しさ、人間としての貧しさを見る時が来た。よく映画とかで、男の親か兄貴分が、俺を倒してから行け、と主人公の壁になるシーンがある。たけしの、その男凶暴につき、みたいに暴力を爆発させて対決することもある。男と言うのはそういう一匹狼を気取る悲しい存在だ。ここには限界がある。女性の良いところは横への連帯を持てるところだ。
 僕も暴力を向けてくる人間には、男として立ちはだかり、対決する姿勢で臨んだ。もちろん本当に強い人間が僕に向かってきたわけではなく、ドングリの背比べのような男同士のいざこざみたいなただの状況だったが。
 僕も男として立ちつつあるようだけれど、その限界である悲しさも引きずりつつある。

 施設での僕への排斥も、僕が男として立ち続けることができれば、下火になるかもしれない。ただ、7月くらいの調子の悪い状況下では、あの施設を乗り切る自信はない。辞めに追い込まれるかもしれない。