NHK Eテレ こころの時代

 作業所のボスの親族の様子を見て、批判の心を思ったけれど、それは家族の問題だから、部外者の僕がとやかく言う筋合いはないと思った。正しいんだという正論の危なさもあるし。正しい意見が正当性があって良いかというと、それは違うと思う。

 NHKEテレ こころの時代、山川宗玄氏の回を見て、日常のやるべき雑務が修行というか、大切だというのを知った。そして繰り返して、飽きるなあというのは正しくないと。
 山川氏の先輩僧侶の講話をドライバーであった山川氏は最初新鮮で熱心に聞いていた。しかし先輩僧侶は話の内容がほとんど同じだという。7割くらいは毎回同じ話をする。それでドライバーである山川氏は居眠りをするようになるが、事故を起こしちゃいけないしという正当化というか、そういう意見を持つようになった。

 しかし、その講話を毎回聞いていた、中小企業の社長が言った意見にびっくりした。それは、山川氏が社長に先輩僧侶は毎回同じ話をしていましたね、と同意を求めて投げた言葉に、社長は、「毎回同じでしたが、毎回違っていましたね」と答えたという。それを聞いて山川氏は背筋が寒くなったという。それは、講話を聴く側が毎回、心のよりどころが違っていたから。

 僕はこのへんがはっきりわからなかったけれど、それは、先輩僧侶は同じ話をしていたけれど、聴く側が毎回成長して、新しい話として体験していた、ということではないかと思う。繰り返しのマンネリズムの気持ちを持つのは正しいが、本当は違う。繰り返しに毎回違う気持ちをもって望み、毎回成長して体験していれば繰り返しに欠伸を・あくびを することはない、ということが言いたいのだろうと思う。よくある話にも思えるけれど、これは重要なことを言っていると思う。