高齢者施設の彼ら彼女らの人生の重み:僕はただの爺さん婆さんと勘違いしてきた。

 施設で清掃中(トイレ掃除をしていた)、入居者さんが介護士さんに嫌だみたいに、拒否感をあらわにして抵抗していた。その意味は、多分介護士さんが、仕事で入居者さんに行動を強いたからだと思う。入居者さんは、狭い施設に閉じ込められ、きつい思いをしている。それで、仕事で関わって強いられると拒否感が出る。嫌だもういいと。
 うまい看護師さんは、人間としてのやり取り、相手を受け止めて、相手のペースで進めようとする。こういうの何回か起きていて僕は目撃している。

 これは介護士さんだけの話ではなく、僕も仕事で居住者空間(ユニット)に入っている。高齢の人たちともかかわっている。僕は今まで、爺さん婆さんとしか見てこなかった。仕事で爺さん婆さんを見ていた。これ、拒否感を突き付けられた介護士さんと同じスタンス。

 ここで最近気づいてきたが、入居者さんは昔は主婦や仕事人としてバリバリ働いてきた人だ。僕たちみたいに。今は働けないけれど、家庭を持ち、子どもを持ち育て、社会人としてやってきた。でもいまはできない、出来ないから施設に来た。助けを必要としているから。
 彼ら彼女らは昔は現役だった。僕の未来の姿を体現している彼ら彼女ら。彼らはこのユニットで暮らしている。ここがすべてだ。彼らは死ぬのを待つだけの人のように暮らしている。だんだん人も欠けていく。次は自分だとも感じていると思う。この狭い空間がすべてで人生を過ごしている。彼らの人生がここにある。社会がここにある。彼らも元は仕事人だった家庭人だった社会の構成員だった。今はここがすべて。彼ら彼女らには過去があり、それは僕や介護士や社会の人たちと一緒。おじいさんやおばあさんではない。人生を背負っているパーソンだ。

 僕もここで人生を過ごしている、生活している、仕事している。同僚も僕は仕事の目で見てきたけれど、生活があり人生がある。過去がある。今まで生きてきた。人と関わっている。


 彼ら彼女らの人生と、僕の人生が関わる。彼ら彼女らが僕を嫌うなら、彼の人生と僕の人生が激突する。彼が嫌うなら、彼の今までの人生に照らして嫌うのだから致し方ない。僕は僕の人生がある。それに異議は唱えない。ここは割り切る。

 ここで働くのは夢のある仕事なのかもしれない。(僕は便所掃除をしているけれど。)社会人として働いてきた退役の彼ら彼女らと関わっているから。彼ら彼女らの人生と僕の人生を激突させる必要がある。彼ら彼女らの長い人生の重みを受容しながら。人を矮小化して扱うのは間違っている。僕は間違ってきた。

加藤泰三(×)さんと書きましたが、正しくは加藤諦三(〇)氏でした。


 父はうちは真言宗だと言った。だから真言宗で送った。CDと経も買ってみた。一度聞いて飽きるかと思ったら、2度目もあった。今日唱えた。蝋燭、線香あげて。僕はこういうの好きだなあ。お経とか仏教の世界観。案外飽きないかもしれない。般若心経の本や読んだことがある。おもしろかった。

 最近の僕の生活は相続一色。今日は役所に行った。職員が個性的な面々でびっくりした。キャバレーのオネイサンみたいな人もいた。すごいなあと思った。印象が変わった。4人と関わった。葬儀代をいくらか助成してくれ、また、出費がある。

・今日は洗髪だけして体を洗わなかった。偽装工作した。一見きれいだけれど、すごい汗をかくのに風呂に入らない。体裁だけ整え、盛った。股間も臭かった。どんな匂いだあ。臭いかあ。嫌われるネタでした。

 りんごのほっぺ、と言う冷やし中華の麺とタレが入ったのを買って、この間のつくり方(きゅうり、ニンジン、卵焼き)で食べた。うまかった。