父の告別式

 父の告別式。
 朝9時に始まる。お坊さんは昨日と同じようにお経を読んでくれた。全力でやって頂いて、手抜きは一切ないのが分かる。成仏してくれると思う。途中、棒を父の棺に投げる。鉢と木魚を思い切り叩いて弔って頂いた。

 お坊さんにお布施を差し上げて、出棺前のお別れの儀式。蓋をずらして、お花を顔の周りに並べる。父の顔は化粧を施され、顔も整えられていたようだった。父の帽子や服を持っていったので、それを葬儀屋さんが身体に上から載せていった。4点もっていった。テニスジャンパー(水色と白の父の自慢の指導員の)、サッカーパンツ(父が若いころ教えていた、緑色)、ラグビーシャツ(オレンジと紺の大学のカラーを使っている)、帽子(ウエストポイントの黒の帽子、僕は変なものぶら下げているようで嫌いだったけれど、父は気に入っていた)。

 父の棺を車に乗せて頂いて、その車に乗り込む。焼き場は混んでいた。友引の次の日だったので。待たされる。母と二人で、焼くのを見送る。なんか残酷な感じがした。火にくべられるのが。出棺前のお別れの時、父が目を開いて口を利くような気がした。あまりに整えて頂いていたので生きているようだった。その父が焼かれて骨になるのが残酷に感じた。お別れ。

 1時間ちょっとで焼かれて骨になる。その間、僕は食事をとった。(ドライカレー) 母はいらないという。母を車椅子に乗せたまま押していき、トイレに入り、トイレ介助。御通夜と今回、2回やった。母の足の肉と尻の肉が衰えて、見るも無残に痩せてたるんでいた。寂しい。ちょっと紙パッドに失禁も、そのまま使うと言うので再度付けた。

 館内アナウンスで、骨を拾いに。熱い台座を前に、母と向かいでお骨を拾う。職員も2人だけで時間がかかるので手伝う。骨は折れる状態になっていて、棒も使って、骨壺に収める。母と箸送りや、一緒につかんで骨壺に入れる。喉ぼとけは母がしまった。僕は歯とかをしまった。虫歯の治療もそのまま残っていた。足から頭に向かって順に骨をしまい終え、頭骨が最後。拾えないお骨は、こちらで供養すると2回も言われた。心配するからだろうと思った。終了し、裏口から出た。良く晴れた暑い日になった。

 僕は葬儀屋さんの車で自宅へ。父の病室の備品も持ってきていただいた。この葬儀屋さんには何から何まで親身にして頂いた。とても世話になった。母は、介護タクシーで施設へ。

 母は終始落ち着かない様子だった。御通夜の時も父のお棺に、ごめんねお父さん、何もできなくて。と言っていた。そんなに自分を責めることを言わなくてもいいのにと思ったけれど、母はそういうセッティングになっていた。(自我のこと)

 焼いている時の中庭で、子どもが遊んでいたり、蝶が舞っているのを見ていたけれど、この世とあの世をつなぐ焼き場の中から外を見る景色は初夏の暑い光を放ち、ガラス越しの外の景色を不思議な感触で僕の目に届けた。

 そういえば、出棺の時のお顔に花を並べる時も、焼くときのお別れの時も、お父さんありがとうと心の中でつぶやいた。焼の時も父の棺に触りながら、お父さんありがとうと心でつぶやいた。

 父は骨になってしまった。

 タイの整体で、整体師さんが、僕が父が亡くなったと言うと、49日の間は修行しているという。だから煙草をお棺に入れようとしたら断られたそうだ。修行にふさわしくないからだそうだ。それで杖も入れるとか。僕は杖が入っているのを見ていなかった。父に術が掛けられて、あの世に旅立ったと思ったけれど、成仏したと思ったけれど、まだ修行の身らしい。49日の段取りもしなきゃならない。 お坊さんは全身全霊でやっていただいたので同じ方にお願いしたい。

 疲れました。2人だけのさびしい儀式だったけれど、気兼ねがなかった。それはそれでよかった。新聞に載せないで頂いたので、僕の対応がなくて、ありがたかった。

 お香典の処理、お返しもしないといけないし、49日の法要も入れる必要がある。書類もたくさんある。ひどく大変なことになっている。

 父の病室を見舞ってたくさん泣いていたので、涙は出なかった。あまり寂しいとは感じなかった。さっぱりしたのかもしれない。語弊がある気もするが。父に術をかけられて、縛られていたのが解けたような気もする。父はお坊さんに術をかけられたので、跋扈(ばっこ)しないだろう。鎮・しず められ、成仏することを祈る。そのことを、成仏をお坊さんのお経の時に願っていた。おとうさん、どうもありがとう。

※お坊さんのお経を聞けるのは素晴らしい体験だった。とても気に入った。声を出す職業はうらやましい。