成長

追記

 ビルの工事で、溶接の人やコンクリートを削っているショベルカー(専用らしい)の人たちを見て、男らしい仕事をしているなあと思った。僕は、着物の糸除去というチマチマしたことをしているので、余計そう見えるかも。今まで工事の人をこういう目では見なかった。最近見方が変わりつつある。



 作業所で丁稚、奉公という言葉をまた思い出した。掃除機かけは他の女性にやってもらっている(結構大変だけれど、僕はやらずに済んでいる)、そのほかの皿洗い、ゴミ集め・捨て、床拭き(少ない面積)、トイレ掃除(男便所だけ・一個の座る便器のみ)をやらせて頂いている。

 雑用をやっています。どれも自分で望んだことです。他の人は能力があるけれど、僕はこれと言った特技もないし、前任者・男の雑用者がやっていたことを真似したくなった。どれも雑用で奉公という言葉に似つかわしい。

 まだやっていないけれど、家で織りをやってできたものを作業所に持っていく、というようなことも奉公でくくれるとおもう。
いままで特別な才能や、秀でているを求めてきたけれど、そういうのはなくても地道に家で織ることを続けることができるのなら奉公という言葉の範疇に入ると思う。今まで自分がやってやるとか、自分が作業するんだという立場だったけれど、逆のチューリップ組(作業所仮称)のために作業したり雑用したり、みんなでチューリップ組を回すために作業したり、自分を滅して、集団の利益を優先するという意味での奉公、丁稚という考えかた。それを求めたくなった、というか思いついた。

 それをカウンセリングの先生に言うと、アドラーの共同体感覚と似ているという。集団を優先できると幸せになるけれど、自分の利害に拘泥・こうでい すると不幸なままだ、みたいな先生の昔のノートのまとめを読んで頂いた。外国人でも奉公みたいなことを考える人はいたんだと思った。ちょっと意外だった。アドラーは持っているけれど読んでいないし、どれが原本だろうと思った。

 家のアドラーの本、
・原典 生きるために大切なこと The Science of Living、A・アドラー 訳:桜田直美、方丈社
を読んでいない箇所を読んだけれど、病んでいる人の記述が多く、正常な発達の個所が少なかった。



整体の先生に治してもらって、僕の首は根元が立ちました。前は根元が潰れてうなだれていました。それは、この新しい整体の先生のおかげです。先生が僕の身体に手を入れてくれたおかげ。触れてもらわなかったツボを押して頂き、知らないポーズをとって治療していただいたおかげです。筋膜リリースと同じことをポコポコ叩くことで治して頂きました。
奇跡のようなことを起こすことができる先生でした。今日、お菓子が届いたはずです。

 カウンセリングの中で、母が言わないようなことを、僕の心の中の母に言わせてもらった。僕は母を責めたい気分だった。もっと優しくしてくれよと。でも、カウンセリングの先生は、本来の母は優しく、僕にも丁寧に接する能力があるのだけれど、父との関係でねじ曲がってしまった、不本意ながら僕に毒のある言葉をかけるのだよと。先生は母の心を代弁していました。それは正しいです。

 僕が本当に母に言わせたかったのは、馬鹿モモヒキ―(僕の仮称)、愛しているよ。お前が大事だよ。という言葉と抱きしめなのかもしれません。