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 施設へ歩いていて、こちらに向けて咳をしている女がいた。否定的な感触で。嫌だなあと思った。僕は咳をされて負け続けてきたというような感じの日々が長かった。何とか押し返すような手はないかなと思った。

 ふと思いついたのが、いつか学んだ人間は受動的な存在だ、みたいな内容のことだった。
 否定されたり、殺されたり、攻撃されたり、受動で受け身になることは多い。そして人間の本質の側面として、受動的というのは大事ではないかと感じた。周りの影響をもろに受け、被って・かぶって しまう存在として。この受動の側面を否定して、無理に能動的になろうとしたり、押し返そうとしたり、相手を攻撃しようとするのは間違いの手ではないかとも思う。

 僕は部屋で歌を歌い、それが外に漏れる。隣の若者は、それで僕を意識するのか、否定的な気を僕に向けてくる。それを僕は部屋で感じて、嫌だなあと思う。今日は、隣のバイクの音に反応して、部屋の中で段ボールを蹴ったりした。
 しかし、これはNGで、僕の受動的な面を否定するのは間違っていると思う。

 人間、受動の側面はものすごく大事で本質だと思う。ここで僕は、攻撃を受ける奴隷になれ、と言っているのではありません。やられっぱなしという意味ではなく、向こうから来るものを受け止めるという側面、いいことも、不快なことも共に受け止める存在だと言いたいです。

 思い出しましたが、この間、僕は許す、ということを言っていました。受け止める、許すというのは受動的な面を言っていると思う。向こうから来るものを受け止める。向こうから来るものを許す。共に受動です。
 
 僕には受動の面と攻撃の面、2つの側面があり、両方で運営されていると。バランスが良ければよいが、受動ばかりでは攻撃せざるを得ない心理状態になると思う。それでも敢えて、受動の大事さを言いたい。

 施設でも、僕は仕事に出かけるが、住んでいる居住者の人は、暮らして生活している。僕は居住者の方の暮らす、という面が見えなかった、金を稼ぐことにかまけて。高齢者の方はそこで暮らしている、生活を営んでいる、この面はとても大事だ。

 人間存在として、立派でもないし、ボロくもない、受動的だからと言って奴隷でもない。案外、受け止めなければ何も始まらないかもしれない。

 ここまで来て、僕は今、やはりあまり調子は良くないのかもしれない。相手の咳に僕は責任を持つ必要はない。否定的な感覚を受け取ってしまうあたり、良くないと言える。この調子の良くない状態で、否定に引っ張られ、負けてしまう。
それはあなたの否定だ。僕のではない。あなたの持ち物だ。
そう、最初から相手の持ち物である否定を押し付けられた。僕が背負うのも間違いだ。それは父ものだ。父の持ち物だった。それを押し付けられた。朝の女の否定の咳も、女の持ち物だ。僕のではない。あなたに返すよ。背負っていってくれ。みんな苦しいものだから自分の持ち物を、カモである僕のところに落としていこうとする。汚いぞ。
自分のものは自分で背負ったらどうだ。自分をごまかすな。