取り組んでいるものの評価は自己評価を採用すべきだ。


 作業所では手話をやっています。その手話の練習で物覚えが悪い人のグループでも1番目か2番目が僕です。ワーストです。
 僕の隣に座る布草履の達人は何をやらせてもうまく、手話の50音も覚えてしまいました。僕はいまだに表を離せず見ています。その手話の達人の隣に僕を馬鹿にしていると思われる女性が立っていました。その女性も手話がうまく、手でスラスラ話せます。その2人が会話で、別の人が手話をやっているのを見て、うまいねとか言い合っていた。それは、その女性はどうかわからないけれど布草履の達人は明らかに僕を排除していると思われた。なんせ僕はワーストですから。その時僕は手話がうまくできず達人に対してグーの音・ね も出なかった。

 こういうのはよくあることで、構図としては単純だ。でも実際にどういうことが行われどうしたら克服できるかここでやってみたいと思う。今日はうまくできないかもしれないけれど、何とかしようともがいてみます。





 女性はどうか知らないけれど、布草履の達人は僕を排除していた。集団はあるレベルに達しない人を排除する特性がある。これに対して僕は否定をしたくない。達人は僕を排除することで自分を作ろうとした。それが達人の世界にとっての成立要件で彼にとって必要なことだった。学力の及ばない僕を排除することが。僕を排除することで自分たちの集団を作ろうとした。その集団は僕を含まない設定だ。

 この土俵では、僕は自分はできる、ということで対抗しようとしたけれど達人の集団に対して示そうとした時点で、達人の集団の土俵上に乗ってしまっており、達人の文脈で僕を評価している。僕はできる、というのは達人の文脈の中でも僕はできると主張しており、僕は自分の土俵を捨てており負けることになる破れる戦法をとっている。
 これはそうではなく、達人の土俵上には乗らず、自分の土俵の中で僕は自分の手話を判断し、レベルの低い高いを自分の文脈の中で判断すべきだ。

☆達人に耳を貸してはいけない。

達人のあの人できるね、という僕を排除する文脈を無視するべきだ。僕は自分で取り組んできた手話の勉強を自分の過去と照らし合わせ判断すべきで、他者との関係で高い低いを言うべきではない。

☆★ 僕はここまで物覚えが悪いなりにも少しずつ進歩してきた。みんながやっているのもただ見ていず、自分で確認しながらみんなの手話を見ていて、このチューリップ組の集団内では見劣りするが、上達しようと絶えず時間の中で手を動かしていて向上心がありガッツがあると言える。これは僕の中だけの話で他者はそうは見ない。僕は自分の中、土俵で評価しており、達人の土俵には乗っていないのでこれが達人に対抗する僕の策、対抗策になる。

 ここまで書いてきて、もっと面倒なことになるかと思ったけれど単純な話だった。僕が達人の土俵に乗らないで、耳を貸さないで、自分の過去を振り返り自分の土俵内で判断すべき内容だった。評価軸の採用を自分内にすべきだった。評価を他者に委・ゆだ ねるべきではなかった。今気づいたけれど、自分で取り組んでいるものの評価は自分ですべきで他者に耳を貸すべきものではないということだ。評価は自分でやるものらしいや。<おわり>