健康診断 + 固有の体験の中を生きる(こっちがメイン)

 会社の健康診断で、肝臓、肺、心臓に難ありと出た。

 肝臓は漢方を止めてみてどうなるかを、泌尿器科の先生に(漢方を出してもらっている)聞いてみる。
 心臓は、母も虚血性心疾患で亡くなったように僕も悪い可能性がある。洞性徐脈と出たように、脈拍の回数が少なく失神してしまう可能性もある。それで検査を受けるように心臓の病院に頼んでみた。休日なの返事はないけれど、明日当たり返事をもらえると思う。
 肺はよくわからない。

 急に健康問題が勃発した。僕も歳なので不具合は出てもしょうがない。いつまで生きられるかと思ってしまう。


☆☆ よく、殺してやるといきがるひとがいる。もし僕が殺されても、死ぬのは僕で殺す人は痛くもかゆくもない。死ぬという作業は全くの僕のものだ。だから殺してやったといきがるのは間違っている。
 殴ってやるは似ているけれどちょっ違うかもしれない。殴られたら痛いのは僕で相手は痛くもない。僕は畜生と思うだろう。殴られるという体験は僕だけのものだ。相手は殴ってやったと思うかもしれないが、殴られる体験は僕個人だけのものだ。いきがらないでもらいたい。

 施設では、気持ちで僕を殴る人がいて、ドアを閉めきったトイレ掃除でしつこくされることがある。たぶん相手は優越感に浸っているのだろう。しかしだ、そいつが曲がっているだけで僕とは全く関係ないことを相手はしている。相手の優越感不満なだけで、僕はトイレ掃除をするのみだ。相手は殴ることで僕より一段高く、殴ってやったと思うかもしれない。しかしこれも勘違い。お前のねじ曲がりだ。

 僕の体験、殺されたり殴られたりは僕固有のもので誰にも侵されるものではない。勘違いしないでもらいたい。
 僕はトイレ掃除と言う僕だけの体験をしている。これは貴重なものだ。手足身体を使い、色々感じながらトイレ掃除をする。僕の貴重な体験だ。誰のものでもない、僕固有の体験だ。僕と言う人間は、僕固有の体験で成り立っている。僕だけが感じている世界がある。この不思議な体験は僕が生きている間だけ続く。僕の固有の体験を僕自身が享受・きょうじゅ する。僕の体験は、僕の身体のみで成り立っている。固有の体験。他の人に話したりして共有はできるが、体験自体は僕だけのものだ。

 僕は僕の体験のなかで満足しなければならない。僕の体験を生きているだから、誰かのせいにしたり不満を持ったりして相手に転嫁・てんか したりすることは甘えになってしまう。逆に言えば、僕の固有の体験を台無しにしてしまう。僕は僕固有の体験を生きているのだから。
 殴られた、殺されたと(殺されたら僕の体験はそこで終わってしまうので、相手に文句は言えない。僕の体験は完結して途切れてしまう。)、不満を持ってもしょうがないのではないか。死は特殊だけれど。
 たとえ殴られて、痛くて、殴りかかったとしても不満を持ったとしても、それはちょっと違う気もする。殴り殴られは相互作用だ。ここでもその体験は僕自身のもので、相手に不満を持つのは理不尽だからだ。どんなに理不尽で相手に不満を持ったとしても、殴られたという体験は僕がしている、僕だけの痛い畜生な体験だ。これを相手に転嫁・てんか しようとするのは、殴り返して相手に押し付けようとするのは相互作用の中を生きているからなだけで、僕固有の殴られた体験・痛い体験は誰にも侵されるものではない。相手に不満を持つだろうが僕は僕の体験の中を生きている。痛い体験を抱える。僕の痛い体験や不満は、相手に押し付けようとすることで解決するだろうか。僕は僕固有の体験を大事にするべきではないだろうか。痛い不満を、僕固有の理不尽な思いも僕の貴重な体験ではないだろうか。


 キーワードは体験だ。僕は固有の体験の連続を生きている。肉体と心で体験を生きている。僕は体験という貴重なものを父母に与えられた。生を受けたから。父母には理不尽なこともされた。いまでも引きずっている。しかし、僕は父母に変なトラウマをもらったり、引きずったとしても僕の体験を生きている。解決していない問題も、父母によって引き起こされた不満も僕固有のもの。僕の責任によって僕が解決していく。もう父母は関係なく僕の問題で僕の貴重な体験を生きるべきではないのか。父母に変な体験のしわ寄せを押し付けようとするのではなく、不満を持つのではなく、トラウマや未解決の問題も僕の体験として、僕固有のものとして僕はしっかりと力強く僕の生を全う・まっとう すべきだ。僕に変なものを父母によって押し付けらたのだとしても、僕は僕の貴重な体験の中を僕のために生きるべきだ。体験と言う肉体と心によって成り立ったいる僕の世界を力強く生きていくべきだと思う。僕は父母によって悪影響を受け、曲がってしまったのだとしてもだ。もう父母云々・うんぬん の時代は終わっているのかもしれない。父母は生きていないのだし。父母に不満を持つことは、僕の生を疎かにし、相手のせいにし、自分の生を自分の体験を生きていないサインになると思う。一時・いっとき の不満はいいけれど、連続の不満は害にしかならない。僕の体験を不満によって蔑ろ・ないがしろ にする時代は終わらせるべきだ。体験は貴重なもので、僕固有のもので、時間を伴っている。時間を浪費する体験は慎むべきだ・つつしむべきだ。時間は限られている。
 自己主張の時代が始まったのかもしれない。これを書いて読み直してみてそう思った。
<おわり>