僕は幸せ者だ。(不完全で追い立てられた機能不全ではなく)

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 僕はいつも何か不自由な、満たされない、不完全な人間として感じてきた。だから何かを取り組むことで完全になるというイメージだと思う。

 作業所では、施設では、ユニットという居住者さんの場所にあるトイレ洗面台も少し担当することに、負担が増えることになって3日くらいたった。とにかくノルマを全部こなすことに全力を挙げてきた。それができて、今日は不満を持った。こんなに負担が多くてずっとやらなくてはいけなくて、いつまで続くんだと。大変すぎると。

 この考え方不健全だと思った。それは上司と別れの挨拶をして僕が不満を持っていることに自分で気づいたことから。

 僕はこの施設にトイレ掃除をやるために来たと言ってもいい。掃除をするために。その掃除のために来たという当初の目的は、この掃除夫の一人として負担すべきノルマをこなせる、まわせる力を僕は持っている、一日で与えられたやるべきノルマをこなせるということで夢はかなえられたと言っていい。僕はこの施設の掃除夫として一人前になった。明日のことなどいい。今日という日にこの施設の掃除を一人前としてこなせる力を持ったと言えるので夢はかなったと考えていいことに気づいた。
 負担が重いとか、ずっとやらなくては、とかは父母との間でかけるようになった、歪んだ眼鏡でみているからの不満で、感謝こそしてもいいけれど、恨むような心持ちは歪んでいると。
 ここまで掃除夫として育ててくれた、一人前にしてくれた施設に感謝するのが筋だと思う。僕は父母の色眼鏡を捨てるべきだ。一人前の掃除夫なのだから胸を張っていい。この施設の掃除を回しているのは僕なのだから。まあささやかな一部分だけれど。

 これに関連して、僕は何かをしなければならないのにやらないというのは、不完全だという感じ方は、本当のところ、僕は何をしなくてもいいのではないのか、何もしなければならないということはないという、しなくていいという状態が本当は正しいのではないのかと言えると思う。しなくていい権利。それを保有していると。何もしなくてもいいというという状態が本当の僕だと思う。
追い立てられるように焦っているのは、しなくてはという父母との関係で勉強しろと言われ続けた、圧力をかけられた古い眼鏡で見ているから。今の僕の本当の状態はなにもしなくていい。

 こう見てくると僕は幸せ者だという考えが浮上してくる。週1で走っているのも、中学生のころからやってみたかったことだし、それが叶って・かなって いる。
 前の作業所で着物の解体を担当したのもやってみたかったことだった。家で歌いたかった気持ちも叶っている。
今日は職場までに時間があったので、朝、スマホで写真を撮って歩いた。5枚くらい撮った。街中の景色の写真。見返しても、よく撮れていると思う。写真がうまいという意味ではなく、歩いたことの無い道を歩いた新鮮感が自分にとって感じられたから。

 僕は本当のところ幸せ者で、幸せを感じるのが筋で不全感に蝕まれるのは・むしばまれるのは、父母の色眼鏡を捨てないからだ。
 
 僕は幸せ者だ。