人間の手によって作られたもの:最初に追記あり

追記:カウンセリングを受けて、先生に要約を作って読んでもらったけれど、先生は健康心配のある上司のことを大丈夫かな心配だな、と思うことも参加することだ、みたいなことも言われた。たしかにそれも、人に参加するとっかかりなのかもしれないと教えて頂いた。



 施設の清掃も、僕たちが掃除してキレイさが保たれている。

 音楽も、アーティスト様が(新手・あらて のサルのことではない)、楽曲様をお作りになられたのではなく(曲に権威を見て崇める・あがめる のではなく)、一人の人たちが寄ってたかって複雑な曲を組み立てた・人間の創造物 と見ることで、ただ受け取るのではなく、どうやってできているとか、どうすればその曲ができるとか 批判的な見方も含めて、制作物の結果と理解して受け止めることができる。

 僕はバカだから、結果を見て、完成されているがゆえに人が作ったという見方を忘れて、ありがたく受け取ってしまい、動かせないという目で見てしまう。そうではなく、この話の持って行き方から想像されるとは思いますが、この世のすべては人間によって作られたものだ。自然は、人間が作っていなくても、何らかの力で作られている、仕組みを理解すれば理解可能なのではないか?(断言できないところが僕の頭の弱さ)。すべてのものを有難く受け取るのではなく、人の手による創造物と見れば、こちらからの参加・批判・付加・意見追加が可能だと思う。僕はバカだから、そこを見ないで有難く受け止めようとする。そこはバカだ。制作過程・製作時間・製作物の最終決定としての成果物として送り出す判断・決断 を理解して物事に関わる必要がある。

 最初から、人間の制作物は、成果物プロダクツは過程と決断によると見る能動的な関りを前提としないと、僕みたいな馬鹿になり、ありがたく受け入れようとする奴隷人として、人間の成果物に対する参加権を放棄してしまう。
 世界は人間の手になるもので満ちていて、制作過程・最終決断をそこに見て取れば、成果物に対して参加可能になる。どんどん参加するために、制作工程を読み取る必要があった。

 僕は本を読んでいても、ありがたく受け取るばかりで、作られるもの・作られたものとして見る参加権を放棄している。参加権を放棄しているから僕は奴隷の馬鹿に成り下がって、受動者になっている。
 参加権を取り戻すためにも、作られ方を想像する必要があるんだろう。