すべての人間を社会の成員として認める(排除しない)

・いつか笑える日が来る、奥田知志、いのちのことば社

交通機関で読んでいます。

ホームレスを排除、認めないというのは、社会の成員ではない、と言っていると思う。

奥田さんの書かれている、「ホームレス経験を評価、得難い体験として貴重な特別なものだと、生死をさまようし・社会的に死んだり自分の命の危機もあるし(僕の理解」こういう見方は、ホームレスになっても社会に開かれている、社会の一員で最初からホームレスを認める立場。

この2つは真っ向から対立し、違うベクトルだ。認めないから認めるに変化はあり得るが、本にあるように、ホームレスの人を良く知らないから排除しようとするベクトルも生まれると思う。

 僕自身の作業としては、昨日、調子の変化があり、着物に穴を開けた。そのことをスタッフに伝えていたらボスが軽くぶつかってきた、帰りも認めないという立場のように感じた。失敗にゆるく接すると、作業所っぽく、なあなあになるし、ズルズルしていきそうだ。それが嫌なのかもしれない。

 今日は調子が良かったのか、集中してできた。甘える、という昨日のブログタイトルに書いたように、父母にぶるかるような感じでテキパキ動けた。失敗した次の日くらい頑張らないと格好がつかない。ボスは失敗を排除するけれど、僕の立場としては排除より許容のほうがいいと思う。排除とというやり方は不毛だからだ。なにも育たない。許容すれば別の芽も出ると思う。馴れ合いはいけないが、そちらに流れない許容もあると思う。

 排除しないで、すべての人間を社会の存在だと、大事な要員だとみることは、自分精神のためでもあると思う。不毛に自分が排除されることを恐れなくていい。病的な性格を遠ざけることにもつながると思う。

 排除しないというのは、踏み込み具合にも表れる。排除するというのは簡単だ。すべての人間を成員と見るのは、踏み込まないと成立しないと思う。失敗した人間や犯罪者を許容するのだから、その人との関係で突っ込んだものにならざるを得ないと思う。すべての人間に人間関係を持つ、という許容する側の負担増と耐性も求められる。理想だから、悪質な場合にどうするかという現実もある。その場合に懲罰として負担してもらうというのも必要かもしれない。