高望み vs. < 等身大 :勝つのは等身大だ。

 胡散臭い モグラの告白を書いてしまいました。

 作業所では、男で父にぶつかるという、いつものコンセプトで作業した。最後まで集中していなかった。帰りにボスが挨拶を返してくれなかった。思った。僕は頭の中でゴチャゴチャしているだけだなと。男で父にぶつかるというコンセプトを導入する時点で頭の中の住人になってしまっている。帰りの交通機関で思ったが、深い体験をしていない。集中できない。深い体験のためにはコンセプトを使うのは得策ではないなあと思った。
 自分を振り返って、僕は体験が深まらない理由として、「高邁な・こうまいな 目標」という基本スタンスがあった。

 これは、英語の勉強のことを例として取り上げると、英語の勉強として体験するより、今の場所じゃなく、高級な検定の級を手に入れるための勉強で、高級な級は異次元の体験をしている人が手に入れる級で、僕らとは違う世界の人たちで特別だと。

 この考え方は僕の昔の考え方。今は英検5級の勉強だし、中学生の辞書を使っているし(ちょっと薄いページ数、字も大きく見やすい)、身の丈の勉強なので気負いがない。僕の中では難しいな、と思うこともある。交通機関でやっているので、ちょっと頭悪い役回りを演じている。気分は中学生だし。

 女を手に入れるのも、高級な、顔もボディーも発達していて、グレードの高い女に憧れるという、高望みをする。これは生殖活動をしたとき、異次元の体験ができ大満足だろうと思ったから。

 しかしこれも、最近作業所の普通の顔の40代の女性に切手をあげて、結婚してもいいと思ったように、相手を受け止めて、それで男になるという、生殖活動より相互交流を主に思うようになった。

 勉強と女の高望みは父と同じだと思う。僕と父は同じ構造だった。ただ、僕は降りて、等身大を志向するようになった。
 そう、等身大というのは体験を深くするのに不可欠だと思われる。身の丈には無理がない。現在を否定する必要がない。現在を否定して高望みしたら、現在に生きる僕は深く体験できるわけがない。

 織をするのも、今できることより、高邁な織り方をしてすごさを見せつけたい、というのがあるから進めないのだと思う。今やっているのは普通の織りだし。どうやったら織りが再開できるのだろう。等身大の織りを積み重ねることが実力アップの近道だと考え、当たり前の織りをたくさんすること。

 そう、着物の糸除去も、実力以上の力を出そうとするより、できることを淡々とやることが底上げになると引き締めることかもしれない。僕は見せつけようとしていた。平凡な糸除去が近道だと思うことかもしれない。


 近所の刃物を僕の目の前で取り出した親父も歳をとった。デイサービスに通っている。両手に杖を突いて歩いている。この間も威張って挨拶してきたが、先輩だしと思って挨拶を返した。まだ歩けるし。その親父がすれ違う時、僕に勝てないと思って下を向いて無言で通り過ぎた。自分の敗北を認められなかった。親父の自信は相対的だったんだ。絶対じゃなかった。僕に勝てるから威張っていただけ、幼稚な奴だったんだ。人間をやるからには敗北も受け入れて、負けの役割をしなきゃいけないときもある。それをずらした。親父、ちいさいぞ。


 そういう意味では、僕の着物の糸除去も実力がないということになる。空威張りしたがるし。