正解はないらしい

 昨日は調子が悪くノロノロ作業した。
 今日は自分ではやっているつもりだったが、迫力がなかった。テーラーSG氏は今日も飛ばしていて、元気がよく生き生きしていた。



 自分のことを振り返ってみて、なぜ僕はテーラー氏のような生き生きしたものがなかったのかと。



・ 僕の目指しているところが、テストの点数をとるように、ある答えがあって、ある手順があって、それの枠の中の点数を叩き出そうとするかのように、委縮した決まりきった温室を目指していたからだと。

 僕は本に書いてある正解をなぞろうとするように、正解を求めていた。本には型があって正解への方法論がきちんとある。本にある正解への枠の中でヌクヌクしようと作業していた。

 作業所の作業には正解はない。自分で取り組んで、自分の方法論を持ち、自分と作業所の2つの間にある双方にとってのメリットを出すように求められている。自分だけよくても、作業所にメリットがなければだめだろうし、作業所だけのためにやればロボットになってしまう。最初から答えを言えば、この段落の最初にあるように正解はどこにもない。自分でやっていくだけだ。

 僕の本読みは、自分では何もしないで本に正解を求め、ほんの正解だけを貰おうとしている怠け者ぶら下がり的発想から出来上がっている。いいところだけ取ろうとしている。お気楽な奴と呼べる。


・ 脱するためには、自分で取り組んで、自分でチューリップ組(作業所の仮称)を動かそうとして、チューリップ組の一員として全力で応(こた)えていくこと、与えられた答えをなぞろうとするのではなく、答えを創ろうと努力することかもしれない。チューリップ組に自分の答えを与えてやろうとすることなのか。
 チューリップ組の求める解答を出すというより、自分で取り組み、自分の回答をチューリップ組に橋渡ししつつ解答をこれでどうだと問うていくこと、自分の問題提起をぶつけていくことなのかもしれない。
 僕はチューリップ組で作業を割り振られるが、こういうやり方でやれとは一度も言われたことがないし、チェックを受けたこともない。任せられている、自主性を委(ゆだ)ねられている。

◯ チューリップ組にも、この世界にもどこにも回答はないのかもしれない。自分の方法論と問いを問い質(ただ)していく場所がこの世なのかもしれない。
 自分でわかって書いているのか、血肉なのか疑問だが。