7/21 Sat /20稲盛和夫氏:雑記

7/21 Sat

 ボスの親族に対する攻撃、という気持ちは捨てる必要はないと思う。そういう部分を僕は含んでいる。抑圧は必要ない。ただ、実際には使われない気持ち。NGなので。頭を下げていく。実際その方はボスの親族なので格好よく、存在自体に重みもある。言動は軽いが。(存在感がある)

 7つの習慣 ファミリーで、Win Win と言うのがある。通常版にもあるだろうけれど。
 これ、僕の家庭では違っている。父はWin Looseだろうし、母もそうだろう。僕だけはWin Winが可能だと思う。
 僕はこの家庭では、常に否定され負けの役目を負ってきた気がする。特に母は僕の行為を否定した。父は外出を否定した。だから僕が自信を持つわけがなかった。つねに否定され続けていたから。


7/20 Fri

 16 Monに、ボスの親族の日報カード(彼はまだ帰らず残って作業があった)の上に自分のカードをのせた(攻撃のニュアンスがある。
 火曜日はボスと親族は休み。昨日の19 Thuに、ボスから親族のやりかけの作業を仰せつかった。お前は(僕のこと)要らぬ攻撃をしたから、許されない行為なので、ボスの親族の尻拭いにもきちんと対応できますか? 的なニュアンスの作業。糸がかなり残っていたので丁寧に除去した。きれいに完成させた。僕はまだ作業所に残りたい。

 僕はただ攻撃したかっただけで、深い意味はないし、スタッフ・ボスは親族をガッチリ守っていたのが肌身で感じた。作業所内で許される行為とNG行為があるのが分かった。


 僕は風邪を引いていて、呆けていたのもあった。


 作業所の女性で、通常業務の上手くいかない方がおられて雑用をやるように彼女は仰せつかっていた。僕の皿洗いを減らして、その女性が今は担っている。僕は週1日やればいいだけの立場になってしまった。

 僕のやることがなくなって、その女性が皿洗いをやる日は僕はゴミ集めをすることで自己表現しよと思い立った。
 それで、ゴミ集めをやっている。掃除機も皿洗いをやらない分、僕が担当できるようになった。負荷が減ったので。布草履の達人の掃除機かけは僕が呆けない限り必要がなくなった。作業所に出かける日は、ゴミ集めをしている。ゴミのオジサンなんです。そうです、僕がゴミ集めのオジサンです。


 もうすぐおじいさんになりかけています。


 ホーリー・モーターズ 昔映画館で見た。その当時TVフランス語講座で宣伝していて、たまたま見たらやっていた。どう考えても僕が見に行って楽しめるタイプの映画なのでノコノコ町へ出て行き、見てきた。帰りはみよしのの餃子を食べた。

 ゴジラのテーマ音楽が流れ、指を噛み切るシーンだったかで、こういうのはいいなあと思った。ナイフシーンは嫌だった。血は出るし。暗殺へ突っ込んでいくシーンは感情的にはおもしろいけれど、ちょっと過激ではないのか? と思った。鉛の弾をしこたま受けていたが。好きだった人が自殺するシーンはいただけなかった。
 ポジティブな映画ではなく、マイナーで辺境みたいなつくりで、見たことのないタイプだった。もうちょっと穏やかだったら全面応援するけれど。暗く過激なトーン。 このブルーレイの宣伝がアマゾンページで展開された。それでこれを思い出して書いているところです。


☆★☆★・稲盛和夫 「成功」と「失敗」の法則 致知出版社

p58
引用:

 仏の教えに、「足るを知る」ということがあるように、膨れあがる欲望を満たそうとしている限り、幸福感は得られません。反省ある日々を送ることで、際限のない欲望を抑制し、いまあることに「感謝」し、「誠実」に努力を重ねていく――そのような生き方の中でこそ、幸せを感じられるのだと思います。
」 


引用者:kurage0147130:「すごい文章です。黄金がザックザック。掘っても掘っても金が出てくる。これ以上の言うことはない気がする。」


 皿洗い女性に負けないよう、僕も雑用を頑張りたい。

 ボスの親族の方は貴い方なので、平民の僕・後ろ盾のない僕とは違い、僕が自分と比較するのは変で、貴い方に接するようにしたほうがいいなあ。自分の回路と切り離す。自分を投影しない。別格と考えたほうがいい。


 水曜日は柄の長い鎌で草刈りをしたけれど、あまりいい道具ではないなあ。普通の鎌が欲しい。どくだみの野郎、白い花など咲かせやがって、こいつら蔓延ると・はびこる と根が切れやすくてろくなことがない。最近繁茂している。母の不注意が最初の原因。


・田中茂範先生の なるほど講義録② 英語のパワー基本語 基本動詞編

 これを行きの短い交通機関でめくっている。すごく楽しみにしている。10分くらいが僕の持ち時間。それしか英語に触れていない。絶対量は足りない。でも、満足していて楽しい。同じところを何回も読んでいるのでちっとも進まない。身に付いていない。身に付けるにはノートに英文を書かないと僕はダメだ。そういう作りになっている、僕と言う人間は。





 のるぽで発射しているが、最近興味が薄れつつある。暴力が基調で、普通の生活とはかい離している、男の抑圧を当然視している、ワンパターン、醜い気がする、のような感想を持つようになった。

 性は赤ちゃんからおじいさんまで誰もが持つもので、若い女性だけの専売特許ではない。僕のような高年齢になっても、おばさんが欲しいわけで、醜い老人の性になっても、僕は求めたいとは思っている。人から見たら不潔でも、汚くても、僕の性はおばさんの性を求めたいと願っている。きれいごとにはなれない。自分の気持ち自体に割り切れないものを含んでいるし。

 作業所の若い女性だけが気になるというわけではなくなってきている。女性全体に目が開かれつつあると思う。高齢者の性って不気味だ。そのエネルギーどこへ行くの。出産なき性の爆発か???