僕はオイディプス王、母の憎しみから目を逸らした。

・ 一昨日は帰りの交通機関で突っ込まれる感じをすれ違う時感じた。それで、母の顔のイメージにペニスを被せたり、持たせたりとやってみた。
 昨日は、キューブリックの時計仕掛けのオレンジのペニスのオブジェで女性を攻撃するシーンをそっくりもらった、流用した。母の顔のイメージに対して、ペニスのオブジェでぶつけたりした。


 今日は、母の顔に対して男として向き合おうとした。昨日の作業はまったくダラケテいたので今日は引き締めようと思った。作業に男をぶつけようとした。成功したのかどうかわからなかったが、作業に真摯に向き合いたかった。ほかの人のように。昨日の作業を終えて帰る女性のお疲れさまでしたという声と、その日の姿勢に見習うべきものがあるのを思い出していた。

 今日は調子が悪かったのを、帰りの交通機関の周りの反応を見て思い知った。けれど、母の顔のイメージと直・じか に向き合っていて、突っ込まれなった。それだけ母の顔のイメージ、自分と向き合うのに必要なことらしい。
 




・ 今日、作業所で掃除機をかけていて、ふとひらいめた。僕は、マスターしょんべんを何千回としてきたが、それらは母に向けてではなかったのか。若い女性の映像や、週刊誌や、そういういかがわしいものを女性だと思って行ってきたが、オイディプス王みたいに自分の母親を抱こうとしてきたのではなかったか?! 僕は母を乗り越えていないのだから、母を抱こうとすることに、女性イメージは歪んでいて実は母だったのではないのか? 現実味を帯びるなあと思える。

 母の顔のイメージに、男をぶつけようとし、ペニスオブジェをぶつけようとし、やってみたが僕は母を超えていない。母の手の内にある。閉じている。負けている。これはどう見てもオイディプス王だと思える。僕は幼稚園の時、母に食って掛かっていた。そして母に人のせいにしないでと言われ、何かをやめた。それは母に対する攻撃で、ペニスをぶつけることかもしれない。母に男として受け止めてもらえなかったのは事実だ。おまけに母に憎まれていたのかもしれない。僕は母に愛されている、父母に愛されていると思い込もうとしてきたが、それは目を閉じた自分に都合の良い、偽りの父母像だった。父母は僕を愛していない。それは今も変わらない。憎んでいるかもしれない。いや、母は僕を憎んでいる、呪っているかもしれない。母と父をつなぐ道具が僕だから。僕がいなければ母はもっと自由だったかかもしれない。父に縛られずにいられるから。憎まれこそすれ、愛はこれっぽっちのかけらもなかった。





☆ その母に愛を求め、拒絶され、否定された。それが幼稚園の僕で、僕にとっての事件のシナリオだったろう。憎まれていたのだから。母は僕を憎んでいた。ここから目を逸らした。逃げの始まりだった。抑圧の原因だった。


☆☆ いま、もう一度母と向き合わなければならない。逃げてばかりだったから。きちんと母を見つめ、自分の気持ち、自分にとっての事実を捉えなければならない。僕のマスターしょんべんの相手はすべて母だったのだ。僕はオイディプス王。母の僕に対する憎しみをきちんと見つめなければならない。


 同じことを繰り返し書いたので飽きた。おわり。寝る。


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