カウンセリング:


 カウンセリングに出かけました。母に男として会うという趣向の、心の地下室に降りて行き、自分の母のパーツと向き合う心理療法をしていただきました。

 地下室への階段は鉄というのかリノリウムというのか比較的新しく、そういうニオイのする階段でした。一番下の段の部屋へと続くドアは木でできており、四角の模様が彫られていました(よくあるやつ)。

 ドアを開けると、位牌がありました。10万くらいの家具の上に置く新しいタイプの安いやつです。それに関して、母の前で習字をしたとき、僕は「死」という字を書きました。哲学のハイデッガー老子荘子?の? 死は生と共にある。向こう側でもなく、こちら側でもなく、生自体が死を含んだように一体になっている? みたいな内容のお話を読んだことをカウンセラーの先生に言いました。
 先生に指摘されましたが、それは母の位牌ではなく僕のものらしいこと。僕が抑圧した時、死から目を背けたことが原因ではないのか、みたいなことをしゃべった。僕は自分の殻にひきこもって、ずっといろいろなことと向き合うのを避けてきた、一種の引きこもり状態だったこと。

 地下室に行く前に、僕は作業所で居場所がなくなりつつあること、立場も悪く、どうなるかわからない状態だと喋った。

 位牌が僕のものだとすると、残り時間、60で死ぬとすると、7年間でどうするのか、どう過ごすかと質問された。僕は音楽と手芸をきちんとさせたいと言った。手芸の実力がないと、60で切られる可能性がある、作業所です。まあそれまでもつかもわからないけれど。佐藤優みたいに、50で残りの人生を考えて過ごさないとまずい状況になっている。

 何かをしないと僕は何も残さないまま死んでいく、という考え方が、自分のできている部分を見ないで、何もできないという、無化するみたいな、全か無かみたいな発想でそれはまずいだろうと先生に指摘された。手芸も音楽もなくても、僕は家の管理を曲がりなりにもしているし、父母の施設にも訪問していた。父へのマッサージもしていた。(父母の施設ともに封鎖された) 自炊もしている。(今日は無印のREdというカレーを食った。レモングラスという、山椒のことなのか、山椒臭いいい匂いのする、ちょうどいい辛さのカレーだった。日本人にとっては辛い部類かも知れないけれど、現地はもっと辛いのではないのか? レトルト臭さはあったけれどおいしかった) 作業所にも通っている。今のところ、休んだことはない(振り替えてもらったことはある)。 いろいろやらかすが、自分で軌道修正して対処できる。ADHDとしては頑張っているほうだと思う。今日はセルフで髪を切った。コースターも1枚だけ織った(6枚続きのうちの1枚)、家でアシュフォードの織り機で机に引っ掛けて身体に密着させて織っている、かなり原始的な道具。
 先生に自分褒めみたいに、自己評価をきちんとしないと、何もできなかったで終わるので、できている部分に目を向けるように言われた。ゼロから積み上げる、マイナスから積み上げるのではなく、できているぶぶんがあって、それプラスみたいなはっそうがいいらしいことぉ、カウンセリングの最後に指摘された。確かに何もできないとできないことに目を向けるより、できている部分があって、それプラスがあるという目で見たほうが、精神健康上良いだろうと思う。
 その自分褒めをどうやって身につけるかは課題だと思う。重要ポイントだと思う。ここができてくると開けるかもしれない。