祝祭

 今日は収穫の多い日だった。

 昨日の続きの、母に甘えたい、という幼児欲求が満たされないで止まってしまっている。それがよくないと踏んで(前回のカウンセリングの最後に取り上げていただいた)、母に甘えたいというのを体で表現しようとしたつもり・体線を外に向けるけれど、その母に甘えたい体線として表現しようとした。



 そしてそのことから、僕はpublicが強すぎると思った。公共的な感覚が大事なのだろうと今まで想像してきたけれど、そうではなく個人的な体験が大事なのだろうかと方向転換しようとしてみた。みんなというと、全員というpublicを想像していたけれど、そうではなく、僕が感じる一人一人を体験として処理しようというプライヴェートな感覚のほうが大事かなと思った。

 それは、隣の席に座る布草履の達人の他の人との距離感から導き出された。この方、極めてプライヴェートな人だと感じられたから。その人の感覚・僕が想像するその人の感覚を盗んで僕の血肉にしようとした。

 
 作業も、走る感覚で作業するというのは稲盛和夫氏の本で知った。でも、今日の自分の感覚からすると、アクセルを踏みっぱなしで作業する、というニュアンスのほうがピッタリ来た。その感覚で最後の作業はやろうとした。そして、作業というのは、ハレのものだろうと。僕はケの作業だった。
 作業は、躁状態で、祝祭的に作業するもので、葬式の気分で作業するものではない。親の家庭は・僕の家庭は葬式みたいな毎日だったので、祝祭的な感覚が分からなかった。作業は、盛り上がりながら作業するものらしいと感じた。

 今日はなぜかいろいろ動けた。明日は落ちるかもしれないが。アクセルを踏んで作業できるだろうか。祝祭的な作業になるだろうか。葬式作業は避けてもらいたいと自分の調子に対して言いたい。