仮想目標を掲げ、驀進したい(願望)

2014/8/10(Sun)



 作業所のスタッフの方の小説を読ませてもらった。先へと読み進め、その書きっぷりにおどろいた。僕にはできないことが進められてあった。




 生きることと死ぬことの問題で、生きることを選ぶにはどうすればいいという、オーソドックスな問題がある。生きてみるという選択に賭け、まず生きることを選ぶことだと。

 僕にとっては他人事だった。死の問題に切迫したのは、抑圧を吐き出す20歳の時だけだから。


 でも、僕は今立ち往生している。日常の活動はしているけれど、目標もなく、何かをするわけでもなく、ただ時間ばかり過ぎ、歳をとり、月日が流れ、過去になっていく。


 僕は何も為していない。そしてこの問題と同じことを思った。目標を作りそれに賭けること。

それは、今は何も起きていず、何か目標もない、のっぺらぼうな日常の中で、
若さに任せて誇大な盲目な目的に驀進する力もなくなった、47歳の爺さんへの道を走り出している僕は、
頼りない架空の目標を掲げ、陳腐でも小さくても、辿り着けなくても、その目標を日常の追求の道標(みちしるべ)にすること。

目標を掲げ、でっち上げ、その目標に進むこと。同じことの繰り返しだけれど、陳腐で小さくアホに思える無化された目標でも、自分で掲げ、自分で掲げた目標に向かって邁進(まいしん)する日常を実行すること。



 僕が、脚が萎え、牙を抜かれた、腑抜けの僕が空虚な日常で、生きた日常を生活するには、仮想の目標を作り、その頼りない仮想の誰も顧(かえり)みない小さな目標に、日常の毎日の中で驀進し続けること、近づこうと動くこと。

そうでないと、僕はただ歳をとり、どこにも近づけないまま、腑抜けのまま終わってしまう。腑抜けでいいけれど、驀進しないまま日常にひれ伏したまま終わっていってしまう。




教行信証を読む、山折哲雄岩波新書、2010

を読み終わった。テキストに従うのではなく、テキストを書いた親鸞の決定の連続の後を丹念に検証していくのを追体験できる。最後の方まで、この本ではなく歎異抄だったかなと思ったけれど、この本を読んでよかった。生身の親鸞の本を書く選択の後を追体験できたので、

僕はもちろん教行信証を読むほど学はない・いまのところ・チャレンジはしてみたい・入門書があるなら、

楽しかった。




100de名著ファーブル昆虫記、奥本大三郎、2014/7NHKEテレ

 第3回までやった。非常に面白く影響を受けた。人間ファーブルが読めてよかった。

アンネの日記もやることにした。女がやりそうだけれど、僕もやりたい。一枚咬みたい。



 今年初めて、セイコーマートのソフトクリームを食べた。うまかった。たべたかった。