満足の心、清澤満之、貴重資料研究会

満足の心、清澤満之、貴重資料研究会、2016 kindleダウンロード 99円。

読んでの感想:僕はかなり主観的な意見です:僕の意見は曲がっているような気もするがご愛嬌:

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 わかりやすい言葉で真実をとらえているようですが、僕は頭が悪いのか消化不良。何回も読んで、自分に当てはめ、消化するまで時間がかかりそう。執着できないものに執着し、欲望できないものに欲望するから満足できないとある。
 これを自分で言うと、若い女に執着し、若い女に欲望する、自分の執着や欲望に根本的な誤りがあるらしいなあ。この執着と欲望は種がないところに種を見つけようとし、過去から続く現在に何の脈略もないのに突然若い女を放り込む僕の方法論が間違っているということか。僕には若い女が登場する文脈がもともとないのに、無理やり登場させてよからぬことが起こらないかと妄想するその手法に誤りがある。接点がないのに執着欲望している僕のあり方が間違いと言うことか。
 僕と言う場所には若い女が登場する素地が無しというところなのか。算数も英語も国語も自分の実力から言って高望みをするのは間違いだろうし、僕は自分と言う器を見ずに、小さい器を棚に上げて、そこに大皿を設定している、その歪みがすべての原因か? 小さい器、過去から僕が付けてきた道筋・小皿なのだから、小皿に盛りつけられた小さな食をありがたく頂戴し、味わい、満足するべきなのかもしれない。

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 お久しぶりです。一昨日は風邪でだと思うのですが、一歩も外へ出なかった。出たいと言う気力が湧かなかった。その伏線としてだとおもうけれど、調子の悪さから鉄分の注射をしてもらいに行った。僕は鉄分が、普通の人の最低ラインにあって、疲れやすく重たい感じで過ごしている。
 胃潰瘍で治療中に、5年くらい前、鉄分を注射してもらったらやる気が起きて水泳につながったといういい思い出があった。いつも重いのに、鉄分を注射してもらったら意欲も湧いて泳いでみようと積極的になった。

・弱虫でいいんだよ、辻信一、ちくまプリマ―新書

 この本にはかなりインパクトを受けました。ゴリラの喧嘩をしない、上下の区別を持たず、喧嘩になりそうになると、体力が弱くても別のゴリラが間に入り仲裁して終わりになるらしい。そこから、他の人との喧嘩をしない共同体と言う横のつながりに話は進み、家族やコミュニティの喧嘩をしない上下の区別のないつながりが人間らしいと主張する。人間らしさとは、勝ち負け、上下、競争ではなく、つながりを持ち、その共同体での活動を大事にするところにあるのではないかと言っていたように感じた。
 僕は強さとか、上下が共同体の主旋律だと思っていたけれど、横のつながりが人間らしいという主張に新鮮な感じを受けた。

 この本の影響下にあります。最後の章に入るところまで読み進めました。すごく楽しくおもしろく、感化されています。久しぶりに読書が楽しいと思いました。自説を主張すると言うより、他の話題のポイントをたどりながら、そのポイントで主張がなされると言う書き方だと感じました。取り上げる話題も楽しいです。「ゆっくり」でいいんだよ も読む予定です。楽しみです。
 
 僕は満足する力や取り組む力にいま興味があります。小さなことに満足して感動して喜ぶ、その感覚が毎日の活動の原動力ではないかとポイントを絞っている。取り組む力も、人間は何かに取り組む存在で、取り組むことで時間がたつと言うそういう生活スタイルの動物だろうと思っている。その辺がうまく回ると、ちょっと楽しく過ごせるように思えるけれど、どうなのか。

女自身より色っぽい気もする。
www.thepictaram.club






トラウマをヨーガで克服する

をやったけれど、木のポーズ、腕を上にあげて、左足を右足にくっつける。その前に意識を頭頂に持って行った。

 これで感じたのは、僕は意識がいつも胸のあたりにあり、潰れているイメージを持っていること。だからこの木のポーズで意識が頭より上の空間を意識させたのは新鮮だった。頭頂に意識を持っていくのもいつもと違うので面白く感じた。

1/6(Sat) 読書

1/6(Sat)

 林へ歌いに行った。翳りゆく部屋。3日目。母に対する憎しみを込めようとした。表現としては80%の合格点だった。子門正人のような、ビリー・コーガンのような潰したうたい方になった。何度もやってきているので歌い方に新鮮味はなかった。かなり表現はできていた。憎しみ表現としては完成に近いし、よかった。けれど、自分の心の感情としては表面に憎しみが浮いてこなかった。歌表現のみだった。心が伴わなかった。その点は残念。他の歌でも続けるしか感情は浮いてこないかもしれない。


・ 弱虫でいいんだよ、辻信一、ちくまプリマ―新書、

 読んでいる。狩りの所で、地元の地域の人は石にも動物にも草にも人間との付き合いのような対等な関係性で接していて、殺すことに躊躇はないそうだ。自分の所の来てくれたのだから、感謝こそすれ残念とは思わないと言う。残念と思うことは失礼だと。自分の手にかかって死んでいく命に感謝と尊厳を見ているらしい。アイヌ民族とも共通する関わりだと思う。(よくわかっていないけれど、文脈で、勢いで言っています)

 このちくまプリマ―新書、読んできた本に外れはなかった。この本も当たりだった。すごく楽しい。僕も強さには懐疑的で、過信する気はないので、弱いと言うキーワードで本が進むのは楽しい。中だるみあったけれど、今読んできた箇所はとても楽しかった。ナマケモノの話もすごくよかった。自分のぶら下がる木に、危険を覚悟で地面まで樹上から降りて糞をする。木にもお返しをするという、葉っぱを食べてばかりではない育てると言う行動が伴うのだそうだ。


・ 南洲翁遺訓、西郷隆盛

 この本齧っているけれど、自分が危機になったとき、かわそうと汚い手を使うのを戒めている。汚い手を使うことはかならず自分に返ってくるから、正当法の方法を取れと言う。僕は、今まで、最近を除いて、自分が不利になったら何が何でも守り抜く、汚い手でもいいから自分の陣地に入られまいと思ってきた、これが良くないと言われた。最近は汚い手を使うと言わなくても少し余裕があるから、自分の所を何とかも守ろう、入られないよう自分の陣地を固めているけれど、昔は余裕がなく我武者羅(がむしゃら)だった。正攻法で進めとのアドヴァイスだった。著者がものすごい人だから僕に当てはめるのはナンセンスだけれど、爪の垢でも煎じようとは思う。



・ 世界における人間、グルントヴィ

 は、ようやく読みやすくなってきた。今までものすごく硬かった。今のところは何とかついていける。身体の話が面白そうだと予想して期待している。グルントヴィさんには付いていきたい。


 読書は自分との対話でもあるし、知らない話を聞けて、おもしろくたのしい。

1/5 Fri いうことは何もない自由の利かなさ。

 今日は母に会いに行った。近くに大学があり、学生はそちらに行くが僕は精神病院に吸い込まれた。帰りもそうだった。寂しい気がするが、僕は精神病の純血種(父母ともに精神病)というありがたい一族に含まれるので、その有難さを噛み締めてきた。

 今日は首が潰れていたらしく、周りがチョロチョロしていた。僕はなるべく惑わされないように、しっかりと手綱を握っていたつもりだった。父母ともに精神病で、僕もそうだという重い現実を正面から受け止めようとしたつもりだった。


 ユニクロの新しいダウンジャケットを着ていった。ジーンズも新しくした。両方とも6・7年着ている。取り替えたくなって去年購入した。

 無印良品でも収納グッズを購入した。いっぺんに収まったり、きれいになろうとは思っていない。徐々に詰めようと思う。

 母は退院後どうなるか、主治医の先生の意見を聞いて決まるらしい。そういう段取りを病院の相談の方から伺(うかが)った。父の足取りも怪しくなっているし、高齢になると寂しい話ばかりになる。

 僕もだんだん自由が利かなくなり、父母の高齢の重さも加わって、世間並みの重さを抱(いだ)いている。なるようにしかならないと思う。僕としては日常を徐々に詰めていく方向で、雑用をこなしていきたい。

 歯切れが悪いが、重い、というのが率直な感想。楽しさや浮ついたものはどこにもない。淡々と歩を進める。その毎日の中にある。父は徐々に介護という言葉がふさわしい頼りなさの中に突入している。もう限界も近い感じがする。(家で面倒を見るのが)

 施設にデイケアに行った日は、たいてい帰ってくるとぐったりして、テレビを見て、やっとのことでベッドに潜ってくれると言う、そういう日を父はすごしている。父と付き合うのも大変だ。(床に寝ないように誘導する大変さがある。)

 
 明日は歌いに行きたいとは思っている。父のこともあるしどうなるか。10日のカウンセリングもキャンセルになりそうな気がする、そうする気がする。
 まったく自由が利かないなあ。ぼやくしかできない。ヨガは楽しみになっている。これは救いかも。

 午前中ヨガをやった。昨日から。自分との対話ができる。

・トラウマをヨーガで克服する、デイヴィッド・エマーソン/エリザベス・ホッパー 伊藤久子訳、紀伊国屋書店

 これを始めた。ヨガの写真付きのページは解説が懇切丁寧でコツが書かれていてとても親切。

 楽しくやっている。目を閉じてやっていると、光を感じたり、身体で空間を感じたりした。ストレッチ、作業所に通っていた時にやっていたのも再開した。自分の身体と対話して自分の時間を持てて、特別な時間が流れる。そこが気持ちがいい。






 歌った。5日ぶりくらい。結果は負けた。40%しか表現できなかった。サビ以外はまあまあだった。

 最初から愛をうたうとか血迷っていた。3回目くらいから親を倒そうとうたった。それでも気持ちがこもらなかった。

 結果、母への憎しみをうたわないと先へ進めないと思った。一番先に来るのはそこらへんだろうと想像している。

 憎しみだから潰して歌うと、ビリー・コーガンのような感じだろうと思う。

 

youtu.be


 今日はダメで、完全に負けていた。敗北。
 





youtu.be

甲本ヒロトさん、この動きいいですね。歌手の鏡だと思う。

掃除

・世界における人間、グルントヴィ、風媒社、2010

 読んでいますが、とても硬い。宗教的で神を前提としている。200年くらい前の人だから当然なのだろう。今読むことにしてよかった。あまりに硬くて教科書的で、学生に所属していた当時の教科書を思い出させた。10%くらいしか理解できない個所もあった。とても倫理的で理解しづらい。久しぶりなので面白がれるが、ずっとこの調子で古くて倫理的で硬かったら投げ出すかもしれない。
 ただ、この名前、グルントヴィという響きに惹かれるので読み進められるかもしれない。僕はこの人が好きだと思い込んでいるので付き合っていけるだろうと今のところ楽観している。





・ 部屋の掃除だけれど、ただ収納すればいいわけではないと思っている。残すからには、片づけるからには使うことを前提とするし、使うことは生活することで、生活するとは環境に働きかけ、環境とともに時間を使い、物自体からも影響を受け、ものにも働きかけることだと思う。

 限られた物、空間、時間、肉体のなかで、ささやかに僕の暮らしを使い、回し、共に歩む部屋を慈(いつく)しむ行為が、掃除・生活・暮らしだと思う。部屋を明確にしないと片付かないと思う。全部を残すことも、全部を片付けることもできないと思う。区切り、仕分け、捨てる、分離が僕の暮らしをはっきりとさせると思う。あいまいな部屋は、片付かないとイコールだと思う。僕も部屋に試されているのかもしれない。

 汚い僕の部屋は、僕自身がゴチャゴチャで曖昧で、未決断で、未熟を映してきた。だから、それらと決別し、新たな部屋との関係に入ることだと思う。厳しさがないと部屋は片付かない。ぼくはまだ曖昧な中にいる。残し共に歩む物、それらに明確な性格付けを求められる。使うという前提。使うと言うのは、今の生活を規定し、先へ進む目標を明確にし、僕を規定する。僕が部屋から作られ、僕が部屋を作る。部屋と言う環境を掃除することは、僕自身に求められ、決断を迫る。いままでの逃げは汚い部屋しか生まない。はっきりしなければならない。片づけて終わりというわけにはいかない。生活をこの空間で回すという毎日を厳しく問われているのじゃないかな。??? (曖昧なまま終わる。いまのところ取組中なので。)


無印良品の、文房具テープカッターとアロマフューザーを持っている。この2つが初めての無印良品だった。

 部屋を片付けるのに、無印でやろうとしている。

・この使い方がすごい! 「無印良品」、主婦の友社 を買ってみた

ウェブページも使い倒そうとよく見ている。安く上げる作戦で、高いのを買うと身動きが利かないので、安くしようとしている。


・タスク管理超入門 というアマゾンで昨日、99円だったのをやっている。キンドルダウンロード。この本に沿って、できないことをやろうとし、てきぱき生活しようと思っている。簡単な割には実践すればかなり良いだろうと思う。

僕の歌。

2017 12 30

 歌いに林へ行った。昨日も行きたかったけれど、首が潰れているようで乗り気でなかった。それで昨日は、spotifyで、右下のマイクマークを押して歌詞を見ながら歌った。エレファントカシマシ荒井由美カヴァー、翳りゆく部屋。家で結構声を出してて歌ってまあまあ満足した。それで印刷をかけた。ラインでつないで ÷い (悪い)音でも録音した。

 今日の林での歌は、一回目が声出し、2回目が慣れ、3回目が調子が出てきて、4回目が勝負だった。
 
 4回目の最初のころは、歌詞を表現しよとした。失恋を。声に失恋を込めようとし、叫ぶところで悲痛な気持ちを込めた。一番最後の叫びで、よく表現できた。歌は60%くらいの出来だった。表現としても40%くらいで、表現することのとっかかりとなり大収穫だった。小収穫だった。
 
 歌で感情と言うか、場面と言うか、失恋を表現しようとし、ちょっとできてちょっと満足した。僕も歌で何かできそうだと思った。80%の表現まで持っていければ、だいぶ歌もよくなると思う。最後のシャウトは宮本とは違う形で、自分なりの叫びを入れてみた。僕には感情表現の核となる思いがあると自己満足しているので、もうちょっと改善できると思う。

youtu.be

追記 ::小さな一歩と小さな満足(僕の主張する見方)

追記:

 小さな一歩とは、小さな一歩をよく認識することか始まる。小さな前進に目を凝らし、ジッと見つめ、よく身体で感じること。小さな一歩を見逃してはいけない。良くわかること気が付くこと感じること。ここができないと、いつまでたっても不幸に身を置くことになる。幸福とは小さな一歩をよく認識し、身体で感じることだと思う。



小さな習慣 という本がある。

前に見たとき買わなかったのは、わかりきったことだから。立ち読みのページをウェブで見たり、目次を見たけれど、買わなかった。僕にはどうも違うという気がしていた。

 NHK Eテレで、子供の英語番組をやっていた。Whale くじらの発音だった。 唇をとがらせてWhと発音する。知っていたか、知らなくても自然にやっていたかもしれないことだった。自分でやってみて、楽しかった。司会者に合わせ、子供たちに合わせ繰り返し発音した。
 僕はちょっと満足した。ちょっとのことで、前進とは言えないようなことだけれど、ここには満足があった。小さな習慣では扱っていないことだと思う。(たぶん)

 挫折するのは大きな目標を想定しているから。そのための小さな習慣だと思う。小さな一歩を踏み出したら、その小さな一歩に対して、小さな満足を覚える必要があるのではないのか。大きな目標を立てるのは大きな満足があると思うから。小さな習慣も大きな目標を前提にしている。と思う。

 もう繰り返しになるけれど、ちょっと進んで、ちょっとのことに満足する、こんな小さなことだけれど、こんなことができた。これをやれた。ここの小さな工夫に満足する。ここのちょっとのことが楽しい。この些細なことができてうれしい。というような、ちょっとのことに満足する、そのいちいちが大事で核になっていくのではないのか。小さな一歩を標榜しても、大きな目標を前提にしていたら潰れてしまうのではないのか。

 ちょっとのいちいちに素直に、単純に、喜ぶ力が必要なのではないのか。そこの感受性を育むことが本当の成功ではないのか。大きな目標が大きな満足でないように、ちょっとのことで大きく喜ぶ、感じ方が、そこのところを大事にする、満足する力が一番大事な気がする。ここをできるようなることが成功への道だと思う。

 だいたい、小さな一歩しか人間は歩めないのだし。一つ一つ手さぐりで動かすしか人間にはできない。小さな一動作(いちどうさ)しか人間の身体はできないようになっている。ひとつの動作が、この一つの身体を占有するのだから。
 だから小さなことに満足すると言うのは、ちょっとの一歩にちょっとずつ大きく満足する力を必要とすると思う。大きく満足する力は、よく味わないとできないだろうし、自分を過信していてもできないだろうし、遠くを見ていてもできない。小さな一歩をよく見つめ、その小さな一歩にいちいち満足する自分の側の成長された部分があってのみ、小さな一歩に大きく満足することができると思う。大きな満足と言うのは、小さな一歩を喜ぶ力のことだと思う。大きな目標に対して大きな満足ではなく、小さなことに大きく満足してのみ、一歩を歩めると思う。   <おしまい>


追記:::::::::: :::::::::
 カウンセラーの先生が、僕に言いたかったのはそこではないのか。先生は、僕が自分のちょっとの成長に満足しないで、次々先へ進もうとするのを残念がっているようだった。僕はその時今より成長されていなかったと思う。
 今はどうかと言うと、これを主張するほど僕は成長されていない。これは試論としてあるだけで、実践はこれからです。まだ僕の中では先端の部分。僕はこの意見に追いついていない。これから、この意見を実践できるようになりたいと言う願望です。この意見より僕は低い部分にいます。


:::介護の方へ向けて書いたもの:::



 こんにちは。
 父が立ち上がれなくなりつつあるという現実から、父が死に向かっていて、そんなに自由はないことを思いました。

 僕が父を施設に入れたいとか、全日介護をしてほしいとか書いたのは、作業所に復帰したいと言うのがあります。働くのも苦しいですが、働かないのも苦しいです。
 現実を見つめると、父が家にいるということは、僕は働けません。父の面倒を見てもらって僕が働きに出ることができます。

 週2日のデイサービスは継続させて頂いて、残りの5日ですが、僕が作業所に(別の所になると思いますが、前の所は辞めたのですぐに入ることは募集がかかっていないでしょうから無理だと思います。)応募して採用された場合、2日間は休みだと思います。(A型作業所・4時間勤務を想定して)

 父のデイサービスとは休みは必ずしもダブらないかもしれません。週5日間は介護の人に来て頂いて7:30~16:30くらいまで父の面倒を見て頂かなければなりません。
 それを施設に父が行くことでカヴァーしてもらうか、介護の人に来て頂くか、介護施設に入所になるのかはわかりませんが、そうしないと僕は働けません。


 週2日の休みの日は、父の面倒を見るのが基本でしょうが、前の作業所で織りと中古着物の糸を除去する作業をしていたので(皿洗いゴミ捨てもしましたが)、織りの教室(2時間・   )は週に1日は通いたいです。(無理なら月2とか)

 そして、カウンセリング(45分・     )も月2くらいは通いたいです。(継続して受けていました)

 あと、猫の世話ボランティア(2時間・    )もしていましたが(糞取りとか部屋の掃除)、これは無理かもしれません。

 これらは高望みかもしれませんが、僕の希望です。無理なら諦めます。週2日、父の介護をします。(家で織りをやるとか、カウンセリングは( 曜日でした)作業所のある日の帰りに別のカウンセラーの元へ寄るとかと言う方法もあると思います)
 

 作業所に応募して働くために、父の介護の人の力が必要です。これを叶えて頂けないでしょうか。無理なら働けず、家で燻(くすぶ)るしかありません。どうか便宜を図って頂きたいです。失礼します。
 

僕の堕落。成功の勘違い。


平成29年12月24日 日曜日




 こんにちは。リコーダーを3か月ぶりくらいで吹きました。同じ曲を14回くらい吹いた。春の小川。とても楽しかった。音楽は一音しか出せない、次の小節の音は出ないし、前の小節の音は続いた場合に鳴っている。今の一音を大事にすることで曲ができる。一音に表情をつけようと大事にしようとしてみた。
 あまり成功しなかったかもしれないが楽しかった。


・ネット防犯だけれど、僕は中継器を買ってしまった。端と端の真ん中に心臓部を置いたけれど、ドアの外まで電波を届けようと思っていた。
 実際にドアの外でスマホを操作してみると、ワイファイでつながった。だから中継器は必要なかったかも。


 僕は思い込んでいた。外まで電波を届けないと、と。実際は、動かす内側の機械までは電波は届かないといけない。でも、外にスマホを持っていくなら、それで操作するなら中継器は必要なかったみたい。

 これは僕の全般に当てはまる。僕は思い込んでいる。ダメだと。自分で決めつけている。ダメだと。僕の成功は、大多数の支持を得ること。そう音楽ならメジャーになること。


・稲森和夫、「成功」と「失敗」の法則、致知社、


では、成功とは世俗的なものではなく、魂を高めるものだとある。世俗的な成功をおさめたらゴールに来たと思わないで戒(いまし)めなければならないと。そこで勘違いしないようにしなと、とある、あったような。



 僕は、歌手になることはできるのではないか。メジャーは無理でも、地元の舞台に立つことで。それも歌手ではないのかと。自称かもしれないが。僕はブレーキを掛け過ぎている。自分で自分の腰を折り、首を絞めつけ、制限をかけている。
 歌の成功なら、前日よりよくなれば、それは成功かもしれない。稲森氏の考え方なら。



 出っ歯の、三山ひろし さんなら、NHKの朝の番組を僕が見ていて、高校生でのど自慢に出て鐘2つで挫折した。母子家庭のせいもありスタンドに就職した。おばあちゃんのススメで詩吟をはじめて、歌詞の大事さに目覚め、演歌の奥深さにも気づくようになる。詩吟という遠回りから歌手への道をまた歩み始める。



 何を言いたいかというと、僕はパブリックな成功を求めるけれど、林に2日間通ったのも歌の成功ではないのかと。1年ぶりくらいだし。怒鳴りはよくなかったが、振り返ると。僕は歌の成功を勘違いしているのかもしれない。世俗的な成功は僕にスター性がないので捨てたほうがいい。でも歌手にはなれると。一人の聞く人がいれば歌手になれる。

 このブログもそうです。読んで頂いていますが、アクセスは少ないです。1人でも来て読んで頂ければ、僕は打ち込み人として成功しています。アクセスを気にするのは世俗に力を入れているからかもしれません。多くの人に読んでもらうことを目標とするから。
 ブログの成功とは、稲森氏の言う、魂の磨き上げかもしれません。僕はそこがこのブログのセールスポイントだと思っているので、僕は成功者かもしれません。言っている時点で堕落していますが。



 稲森氏の言葉を借りれば、僕は成功を勘違いしている。僕は父母の件で成長しました。父母と深くかかわりました。父母は僕のイメージと違っていました。父のほうが善良で、母は変わった人です。カウンセリングの時と逆転しています。父母が高齢になったからなのか、僕が成長したのか。


・・・・・・・・ 今日は父とケーキを食べました。ひそやかに暮らしています。父の口にケーキを持っていきました。パクッと食べます。次の一口まで待ちます。また、パクッといってもらいます。待ちと行為の交互の作業です。父が咀嚼している間は待ちです。この時間、もう残り少ないかもしれません。父との思い出になるかもしれません。父は施設に行くだろうし。・・・・・・・・


 僕はまた、働く気持ちでいます。できるだけ早く。
 謡曲にも興味はあります。三山さんの話を聞いて脱線もいかなと。


 僕の歌の成功は、前日よりゲインすることにあるのかもしれない。それなら成功者になれる。歌手になれる。自分で決めつけ諦めるという、ブレーキのやり方。この方法、父母のやり方だと思う。もう脱げられるのではないのか。父母の衣服から。(たとえ)

 ユニクロでダウンジャケットを買った。6年前くらいのを、ずっと1着着続けてきた。母も入院したし、母はまだ着れると、購入に反対だった。もう自分で決めて行動していい。父母のブレーキはいらない、自由とかではなく、やりたいならやればいい。父母のブレーキはいらない。と思うが、深く刺さっている。父母の制限、ブレーキかけ、締め付けを僕は自分に対して自分でかけている。ロックしている。


「 :
 魂を よっこらしょ、と持ち上げ、磨き、変化させることが日課になるなら、僕はそれをやる手筈(てはず)は整っている。やり方も知っている。ただ日々行えばいい。でも、僕はやはり逃げ続けるかもしれない。腰抜けとして。それは自分との戦いになるだろうし、今までは負け続けてきた。真正面としての取り組みなら。

 自分を高めることが成功なら、僕はそれをできるはずだ。背伸びをしないようにしないと。いっぺんによくなろうとか、世俗を求めたりしなようにして。道具をそろえようとするのは、世俗の成功を求めて、背伸びをしようとしているから。僕は調子の悪い時は、毎日ネットで時間をつぶしてやっている。その辺も腰抜けの証(あかし)です。
: 」

 昨日は調子が悪かった。今日も沈み込んでいる。

 住んでるところの同じブロックの長の方が(ブロック長)、僕の所を飛ばしてもいいと(班長)、わざわざ見えられて話していかれた。僕は金を集めるのが苦手なので頭を下げて頼んだ。僕の家は空中分解することになっている。皆施設に入る。バラバラになる。

 昨日は母の所に行った(病院)。住んでいるところの反対方向。2時間片道かかった。3回も乗り継いだ。疲れた。

 母は昔は違ったのか、変わってしまったのか、変な女だと感じる。どうしてこうなのかと。不満のような、そんなことばかり言う女である。

 それに比べると、暴行を受けた父のほうが扱いは楽だ。ユニクロのパンツを父のために買い、事前に言わなかったからと殴るみたいに詰め寄られたけれど(不快だった)、その後の父はおとなしい。買ったこと自体は嫌がっていない。すぐ履いて行った。
 その父は、皿洗いを手伝ってくれるし(何もしない父が皿を洗ってくれる、すごい)、僕がやることに感謝の意を示してくれる。母は不満ばかり言うのに対して、父は自分の感じていることを誠実に僕に言おうとしている。父となら付き合えるが、僕が働くには足手まといだ。だから父にも施設に入ってもらう。僕もグループホームに入る。精神障がい者の。

 滅入る話ばかりの、停滞と、負担の多い作業が続いていく。これから、父母の年金額をはっきりさせ施設を探してもらう。後見も余裕があればついてもらう。

 今日は母に家にある日用品を集めて小包を送った。ラジオと介護シューズも買い病院に送った(配送先を病院に)。

 昨日今日は冷凍食品でごまかした。何もする気がなかった。遊んだほうがいいのかもしれない。息抜きが必要かも。ずっと父母に対する作業が続いている。ネット買い物が頻繁になっている。ストレスが多いからか。やはり自分に対する遊びが必要かも。脱線推奨。

 母を見ると、人間齢をとると、変質するのか? それとももともと変でそれが顕在化したのか。付き合いたい人ではない。避けて通りたい。そう感じる。これが僕の母かと。認知症も混ざってきたからか?




・ すごいストレッチ、という本を電子書籍の宣伝で見て、アマゾンの・中身を見る で見てみて、この本の良いところは特別の時間と場所を必要としないから受けているのだろうと感じる。
 リンパの本はよいのだけれど(持っている本)、床に転がって特別の時間を必要とするメニューになっている。だから、やらない。今必要とされているのは、すきま時間にいつでもできるストレッチ、この本のキャッチフレーズ・職場で というのだと感じた。
 中身見る を見ながら、実際にやってみて、これはいいと感じた。だから購入候補。





 昨日はバスの中で昼飯食った。浮いていたが、アウウェーに出かけ、時間もないのでお構いなしに食った。3時には父がデイサービスから帰ってきた。

 とりあえずリコーダーを3か月ぶりくらに吹いてみる。ちょこっとでいいんだ。おさらいでいい。基本で。そこから始めよう。
 明日は楽しいクリスマスだが、うちはそんな状態にない。分解の、引っ越しのような雰囲気になっている。

21 Thu

 弁護士先生に相談に行きました。

 とても親切でわかりやすく話してくださいました。

 父の借金の問題は父の問題なので僕たちは払わなくていい。裁判を起こされて何かあったら来てちょうだい、といったニュアンス。たぶん向こうは何もしないと思うと。

 父母にも後見を立てたらいいよと言われた。父母が施設に入っても、1割か2割負担だから入れるし、後見も立てられると。そのことを高齢者支援センターの方やケアマネージャーに相談しなさいと。

 暴力をふるうこともないだろうという話だった。僕は来るかなと思っていた。

 僕なんかの素人にわかり易く親切にナビゲートしてくださった。こんな親切な人だったらもっと早く来ればよかったと思った。そして、月6万の収入の僕には法テラスのおかげで無料にしてくださった。センター負担らしい。弁護士先生に対する僕のイメージはかなり変わった。こんなよい方だとは思わなかった。(タダだからではないよ。それもあるけれど(少し俗っぽく))



 地元のホームセンターで防犯カメラを取り付けるための(外用を家の中で使う)、石膏ボード穴あけネジ打ち込みの道具をそろえた。(アンカーとか、ネジ開けドリルの歯とか、たこ足配線のタップ、コード止めのステップル・ステッカーなど)
 自分でやってみようと思う。屋外のカメラを流用するのでコードがごつかったり、器具が重くて大きいが一時なのでしょうがない。父が使っていた電動ドライバー(父なので3回くらいしか使っていない)が使えるのかな? 充電できるといいけれど。古い。


 今日はカレーライスを作ろうと思う。

20 Wed

世界における人間、グルントヴィ、風媒社、2010初版本(2017に買ったのに初版の在庫があったので売れていないと思う)

風媒社の目次が出ているページ:
図書出版 風媒社 > 世界における人間(N.F.S.グルントヴィ 訳者:小池直人)


 この目次を3年くらい前から見ていて、買いたいなと思ったけれど難しかったらどうしようと二の足を踏んできた。
 今回買ってみて、やはり目次がそそるし、今読んでるしょっぱなから引き込まれる。引用したいけれど時間がかかるので割愛。グルントヴィという名前がいいし、相性がいいのではないかと思い込んでいる。ハードカヴァーでないのが残念。糊でくっつけただけだけれど、安いからいいや。

 熱くなる本。ホイスコーレも面白いのかもしれない。でも、僕が最初に惹かれるのはこの本。最初は詩の引用から始まる。割愛。

 

 濱田美里:料理 というのを実践している。さんま・梅干・しょうが・にんにくを夕飯にやって、朝は肉巻オクラ(フィリピンのだった)・エリンギを作った。両方ともうまかった。料理は手作りがうまい。これはたしか。冷凍食品の単一な味と比べると全然違う。
 今は料理を充実させている。戸配も冷凍でまずかった。料理は楽しい。ちょっと違うかな。そのような感じだけれど、僕のは端折るので抜いたりして作る。でも違ってもうまいよ。

 
 来年の大河:西郷隆盛:南洲翁遺訓 角川ソフィア文庫も読みだした。稲森和夫の影響。100de名著の来月の奴。人間としての態度、心構え、考え方が決定的に僕なんかの軟弱と違うみたいだ。はしがき を読んで(西郷隆盛のその人の年表:業績・概観)をそう感じる。


 そういえば、こちらがメインだったか、歌いに、怒鳴りに行っていない。怒鳴りたくない。怒りたいとも思わない。基礎をやりになら行きたい。そうでないなら歌いたくない気がする。逃げかもしれないがそういう沈んだ状態にある。

平成29年12月18日 月曜日

 こんにちは。

 父がトイレに入り出てこないので催促したら、尻の糞を取れという。ビニ手をしてひっぱたら、ボトボトと床に垂れ流した。靴下は使えなくなったが、ジーンズは生き残った。父のスウェットもダメになった。

 床をきれいにして、父の病院に出かけた。割とこういうの僕は何とも思わない。天職か?

 
 病院に着いて待っていたら、父のことが気になった。小便漏らしていないか、倒れていないかと。僕の責任だと思った。今度来るときは、デイサービスに預けようと思った。作戦を立てて出てこないとダメだと思った。急いで帰った。父は何ともない顔で部屋にいて安心した。ちょっと緊張した。

 ネット防犯は、カメラを壁に取り付けた。スマホで見ると、かなり高精細な画像。音もデカくて、通話できそうだった。外で使うと、どのくらいの量を食うのか心配だ。低額サービスを受けているので、オーバーがどのくらいになるか心配になる。一度ワイファイを使って試してみたい。父のことだから否定されるかもしれない。父が耄碌(もうろく)したのを最近頓(とみ)に感じる。

 午前中は、母と入院前に約束したのを実行してきた。全部僕にツケが回る。今日の父が無事だったのは、父と僕の巡りあわせが良かったからだと感じる。(稲森和夫氏の影響を受けたの大。)
 稲森氏の本は、実践しないと意味がない。そして実践するには、自分の現実を直視し向き合う必要がある。その上に稲森氏の考え方をのっけないと、嘘つきになる。まずは自分の不明朗、悪さ、いたらなさ、間違いをよく見つめ、そこを掘り出して陽に当てないとダメだ。それから稲盛氏のやり方を上に乗せてつなぐ。現実でやるには覚悟と度胸と誠実さ、直視が不可欠だと思う。難しい。僕は、自分の汚さ、狡さ、弱さ、未熟をよく見つめないと何もすすめられないと思う。

 本で、方向性は教わったので、繰り返し読んで、羅針盤としないと進められない。豚大根は、生姜の辛さがおいしかった。ごま油とグラニュー糖みたいのを入れたけれど、酒を入れればもっとおいしかったと思う。リンゴもうまかった。手作り食は充実させたい。