追記:
小さな一歩とは、小さな一歩をよく認識することか始まる。小さな前進に目を凝らし、ジッと見つめ、よく身体で感じること。小さな一歩を見逃してはいけない。良くわかること気が付くこと感じること。ここができないと、いつまでたっても不幸に身を置くことになる。幸福とは小さな一歩をよく認識し、身体で感じることだと思う。
小さな習慣 という本がある。
前に見たとき買わなかったのは、わかりきったことだから。立ち読みのページをウェブで見たり、目次を見たけれど、買わなかった。僕にはどうも違うという気がしていた。
NHK Eテレで、子供の英語番組をやっていた。Whale くじらの発音だった。 唇をとがらせてWhと発音する。知っていたか、知らなくても自然にやっていたかもしれないことだった。自分でやってみて、楽しかった。司会者に合わせ、子供たちに合わせ繰り返し発音した。
僕はちょっと満足した。ちょっとのことで、前進とは言えないようなことだけれど、ここには満足があった。小さな習慣では扱っていないことだと思う。(たぶん)
挫折するのは大きな目標を想定しているから。そのための小さな習慣だと思う。小さな一歩を踏み出したら、その小さな一歩に対して、小さな満足を覚える必要があるのではないのか。大きな目標を立てるのは大きな満足があると思うから。小さな習慣も大きな目標を前提にしている。と思う。
もう繰り返しになるけれど、ちょっと進んで、ちょっとのことに満足する、こんな小さなことだけれど、こんなことができた。これをやれた。ここの小さな工夫に満足する。ここのちょっとのことが楽しい。この些細なことができてうれしい。というような、ちょっとのことに満足する、そのいちいちが大事で核になっていくのではないのか。小さな一歩を標榜しても、大きな目標を前提にしていたら潰れてしまうのではないのか。
ちょっとのいちいちに素直に、単純に、喜ぶ力が必要なのではないのか。そこの感受性を育むことが本当の成功ではないのか。大きな目標が大きな満足でないように、ちょっとのことで大きく喜ぶ、感じ方が、そこのところを大事にする、満足する力が一番大事な気がする。ここをできるようなることが成功への道だと思う。
だいたい、小さな一歩しか人間は歩めないのだし。一つ一つ手さぐりで動かすしか人間にはできない。小さな一動作(いちどうさ)しか人間の身体はできないようになっている。ひとつの動作が、この一つの身体を占有するのだから。
だから小さなことに満足すると言うのは、ちょっとの一歩にちょっとずつ大きく満足する力を必要とすると思う。大きく満足する力は、よく味わないとできないだろうし、自分を過信していてもできないだろうし、遠くを見ていてもできない。小さな一歩をよく見つめ、その小さな一歩にいちいち満足する自分の側の成長された部分があってのみ、小さな一歩に大きく満足することができると思う。大きな満足と言うのは、小さな一歩を喜ぶ力のことだと思う。大きな目標に対して大きな満足ではなく、小さなことに大きく満足してのみ、一歩を歩めると思う。 <おしまい>
追記:::::::::: :::::::::
カウンセラーの先生が、僕に言いたかったのはそこではないのか。先生は、僕が自分のちょっとの成長に満足しないで、次々先へ進もうとするのを残念がっているようだった。僕はその時今より成長されていなかったと思う。
今はどうかと言うと、これを主張するほど僕は成長されていない。これは試論としてあるだけで、実践はこれからです。まだ僕の中では先端の部分。僕はこの意見に追いついていない。これから、この意見を実践できるようになりたいと言う願望です。この意見より僕は低い部分にいます。