僕は低能だ (読みたくならないタイトル)

2014/6/7(Sat)


100de名著 遠野物語 柳田国男、石井正己


を読んでいて、僕に必要なのは自分にとっての言語になる前の感覚なのではないかと思う。他人にとっては陳腐でも、僕の中では言葉になっていない明瞭ではない部分、曖昧で不鮮明、ぼやけたもやもや。民話は、今の感覚にはないもっと古い感覚が含まれるから読みたいのではないのか。

25歳くらいの時に、図書館で口語の新しいのを読んだけれど、どこがいいのかさっぱりわからなかった。今と比べると当時は格段にバカだった。今はまともになりつつあると思っている。

 はっきりしたものが大事なのではなく、もっと不明瞭なものが欲しいのではないのか。というわけで、

恒例の捏造大会。



「 僕は低能だ 」(読みたくならないタイトルです)



 扉には、開くべからずと書いてあった。あけてみると、文字を目で追って、このウスノロ野郎、お前はバカだと書いてあった。そうそれは俺について書いてあった。俺はバカで低能なのだった。ふつうなら反発するところだが、僕はほっとしたのだった。俺は低能だ。そこには真実があった。望むのは高みだけれど、実際は周回遅れのウスノロの低能なのだった。俺自身について書いてある文字だった。なぜその本にそんなことが書いてあり、僕がそれをめくって読んだのか。よくわからない。

 劣っていることは嫌うべきことか、違う。事実はみつめ、受け取ることだ。俺が低能なのは真実だ。嘘偽りがない。そのままのことだ。逃げることもする必要はないし、反論の言葉もない。ことば、本当のことは開いてくれる。僕の力が開かれ、光で満ち、輝くことだ。

 僕は低能だ。落ち込むような言葉だけれど、認める真実がある。限界を含んでいる。避(よ)けようのないそのままのことば。低能は開かれている。すべての扉を開く鍵だ。



「僕は低能だ 批判」(補強になった)

 僕は優れていようとしてきた。何回も書いたと思う。逃れられない事実がある。僕が心で思ってきたもの。表面の心ではなく、自分に対して疑ってきたもの。本当のこと。
事実を言うというのは強い。飾る必要がない。嘘がいらない。僕が低能だというのはずっと感じてきたことだろう。
 この言葉がどれだけ強いかは、だんだんわかる。使い続ければ、使えるか使えないかはっきりする。

 僕は低能だという言葉。嘘をつく必要はない。

 批判というより、補強になった。