不安・攻撃:お医者様の教え /雑記:☆

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 お医者様は、前回の診察で、不安になると攻撃が増す、みたいなことを言われた。僕はちょっとピントが合わずわからなかった。

 けれど最近、周りが僕を攻撃したいようなオーラを放ち、異物を見るような目で舐め回すとき、僕の不安は大きくなる。全部の人間がその雰囲気で染まっているのを感じる。

 僕は極度の攻撃されるのではないかと疑心暗鬼にになる。ここで負けてたまるか、殴らせるわけにはいかないと、自分の攻撃を増幅させ、こちらの攻撃を上乗せに次ぐ上乗せにして攻撃力を高める。これは負けたくない、攻撃されたくない、踏み込ませたくない、という不安から、僕の側が攻撃の増幅で鎧を着たものだ。武装して攻撃力で思いとどまらせようという作戦だ。
 
 この自分の側の攻撃の力を増幅させるのを変化させようとした。前回のカウンセリングで、安全基地を作って頂いた。これは、自分の側の安全な、ゆったりとしたリラックスの場所を意識的に作ることを僕に教えていただいた。これを使った。自分の側の攻撃を増幅させるのを止め、安全なリラックスという部分の織り込もうとした。実際の作業としては、6割攻撃・4割安全基地。4割攻撃・6割安全基地というように、安全基地の割合を攻撃の割合に含ませてバランスをとるようにした。これは、攻撃一辺倒からの脱却を意味する。自分の中のバランスを意識的に作った。
 これは全部カウンセラーの先生のお膳立てを実際の場面で使ったものです。硬直中和になったし、頭が思考停止にならず、柔軟性を持ちバランスを取ろうとすることにつながりました。

 きょうはうまくいった。ありがたかった。結果、今日はあまり調子のよい日ではなくて、先生のまいた種をジャックと豆の木よろしく、使ってみたということです。

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・ きょうは道立近代美術館へ 蠣崎波響 展を見に行った。たいして期待していなかった。

 まず日本画だという点が良かった。僕はこの間まで日本画はマイナーだから好きではないのじゃないかと自分自信に思っていたが、好きだとわかった。洋画より好きかもしれない。

 この展覧会、展示会場はAだけれど、常設展も兼ねているので人が少なく、目玉でもないので僕のための展示のように絵を舐めまくって舐め回すように近くで見て堪能した。

 僕にとって力が入ったのは、梅の枝だと、梅の枝の気持ちで描かれていること。梅の枝になり切って凸凹と描かれている。花びらもあっちへ向いたりこっちへ向いたり、蕾だったり散ったりと、一本の線も揺るがせにしない、心を込めてち密に丹念に描かれていた。気持ちよさと潔さ・いさぎよさ を感じた。

 鶴には丹頂と真鶴という種類があることを知った。僕は丹頂しか知らなかった。北海道に住んでいるせいもあるが。丹頂も鯉も松の枝もなり切ってそのものに乗り移って描かれているように僕には感じた。描く人は客観的に書いたかもしれないけれど。でも、あの線を描く人は、一球入魂みたいに梅に乗り移って描かないとああはならないと思う。人物もトラもおもしろかった。絵の近くにへばりついて見た。

 ああ、楽しかった。僕の自由時間の最大の娯楽だった。コーヒーを、紙コップコーヒー自販機を飲んだ。外の見える席はいっぱいだったので、手すりの見える、吹き抜け沿いの横席で飲んだ。うまかった。トマトジュースを持ち込みで流し込み中和させた。

 現代美術でも面白い人はいたけれど、面倒なので書かない。耳を作る有名な人の作品を初めて見た。この人の作品ってこんなだったんだ、ここにあるんだと、ちょっと感激というか面白いような感想を持った。耳ばかり作ったというから変態的なのかなとかマニアックなのかと思ったが、意外に普通だった。当時は革新だったと思うが。



・ 昨日はプールへ行った。収穫は平泳ぎの足のL字は、足首に力を入れると水を捕まえることができる足になることを発見したことだった。蹴った後、ストリームラインを作って泳ぎを伸ばすというのを忘れていて、蹴ってばかりいた。焦って、前のめりで、早く上達しよう、先へ進んで泳ごうと蹴ってばかりだった。バカの蹴り泳ぎという面はあった。
 ビート板につかまったり、呼吸の動作を捕まえようと練習したり、自分なりにいろいろ試した。だから泳ぎだけで、4往復くらいはした。それ以上。あと、泳ぎの前と後にはお約束のウォーキングをした。これはルーティンとして組み込んでいる。
 僕は遊園地は嫌いだが、泳ぐプールは遊園地のようで、アミューズメントパークだなと感じる。好き勝手ができる夢を見る場所。楽しい。

 上達は遅々としている。ここがポイント。上達というのは、一気に行くときもあるが、たいていは遅い。そのちょっとの違いにどれだけ驚き喜び、うれしさを見出せるか。



 カウンセリングの先生には、EMDRをやって頂いていた時期に、もっと進歩に喜べばいいのに、みたいに言われた時があった。僕は、ブログとかで、自分の進歩は勝手に捏造してきていたので、進歩というのは大きく派手でないと感じないや、とかと、今となっては馬鹿な感想を持っていた。


☆ 今の感覚で言うと、英単語一個覚えるごとに感動してもいいのかもしれない、先へ進むことに力を入れて小さな進歩に感動しないよりは、些細な違いに目を光らせ、自分の変化にもっと大きく、変化を救い上げるように小さな一歩を感動してやることが長続きすること、息切れマンネリにならない秘訣かもと思う。今の感想はそういうところがポイントだと思っている。



 道立近代美術館のホールには、ロダンかなんかの像が屹立している。5メートルくらいあるようにバカでかく、いつもでかいなあと思っている。





・ 母はいつもと変りなく、最近の穏やかな感じ。棘はあるんだけれど。父は、鶴田浩二の軍歌を聞かせたら、また来てくれと、いつもは一緒に帰るとか無理を言うのに、妙に頭が冴えているらしかった。




・ 台所で砂糖の瓶を転がして、ぶちまけた。後片付けが面倒だった。それは母が遠くの高いところの手が届きづらいところに置いていて、それを変化させずそれを踏襲して使いづらいままやってきたツケが今日回ってきただけだった。

 それで、自分で台所を作ろうと整理と掃除をした。自分で使うものは自分で作らないとダメだ。作業所の人間関係も、家の部屋の整理も、何もかも自分がかかわるものは自分で作るという不退転の決意のもと、やろうとしないと何一つ結果は出ないと思っていいと思う。


☆ 自分で作るという、維持とか、整理とか、横感覚の停滞した後ろ向きではなく、作るという、作り上げる感覚、一から積み上げる感覚で、「作る」という言葉を使っています。