「醤油・伝わる」「2冊の相互参照」 31 Mon /宮沢りえ Santa Fe・サンタフェ を見ての感想・2017/07/30(Sun)

 作業所で、食事が提供されるのだけれど、ソースをとんかつにかけようと、取ろうと思ったら他の人が持っていた。

 それで醤油にした。醤油のボトルをつかんでかけて戻そうとしたら、僕が好感を持っている人が手を伸ばしてきた。僕のを受け取るという意思の現れた手の出し方だった。僕は相手のほうの机に置こうとして、まだ手を伸ばし続けるその人に(男)手渡した。その人は受け取った。

 僕を拒絶するのではなく、手を伸ばして受け取ってくれた。ここにはやり取りがあった。僕はこの時、相手の意志・否定してくるのではなく認めていた、その手へ伝え渡した。ここには人間のやり取りがあった。コミュニケーションで、

受け取るという意志へ僕は伝え渡した。受け止めて、受け入れてもらった。人間活動の輪の中に入れてもらえた。稀有(けう)な
経験をした。とてもうれしかった。ありがとう。僕の醤油を待っていてくれて。






追記

サンタフェとプール・アミティエは、相互比較するためにあるかもしれない。どちらか一方ではだめで、両方を見比べるためにある。サンタフェはプールを比較のため必要とするし、その逆も同じようになる。両方を参照しつつ宮沢りえ氏にになるのかもしれない。どちらか一方では不完全かもしれない。

どれだけ跳んだかはサンタフェを見ればわかるし、逆ならどの地点からこうなったかがわかる。この2冊の写真集のギャップは何だ。雲泥の差がある。裸だというだけではない気がする。女としての変化があるのか? これは願望を投影しただけの見方か? 人間は成長する。若い時は著(いちじる)しいだろう。

 この2冊の間に何があるのか想像するのは楽しいかもしれない、かも。心も身体も顔も変化したと思う。若い時の変化。中年の変化もあると思う。

7/31 Mon


 プール・アミティエ 宮沢りえ写真集 野村誠一・撮影、ワニブックス、1989

 届いた。最初の予想どうり必要のないものだった。

 高校生くらいのりえ氏の水着姿。高校生の暑苦しい、傲岸な、楽園に住む精神状態がそのまま写り込んでいる。たぶん僕も高校生の頃はこのような暑苦しいイモの。りえ氏の5倍は見苦しい顔だったと思う。

 りえ氏がサンタフェで花開く前の蕾(つぼみ)の状態。この写真を見ても何も感じない。ただ、そこらの高校生の姿があるだけだった。安く買ったのは正解だった。ちょっと見ていらないと思った。


 女の一生として見るらなら、やはりサンタフェへと続く前段階の楽園に住む高校生の普通の顔がある。一般的すぎるぐらい凡庸だ。女も花開いた後は、しぼんだりするから、そこへと至る一歩と言えるのだろう。サンタフェのりえ氏は眩(まばゆ)いが、ここでのりえ氏は普通すぎる。

裸でないせいだろうか。たぶん裸になっていても、つぼみだろう。誰もが大人になる前はイモっぽいということなのか。


 僕にとっては面白くない写真集だった。見返すこともないと思われる。目的をどこかに持てば見返す意義はあるかもしれない。
 それは、平凡な高校生の顔の確認とか、身体だけは大人だったとか、女として花開く前は皆一緒という確認だったりするかもしれない。今は他の目的が思い浮かばない。凡庸の確認で終わった。この写真集を見て何も喚起されない。







 

坂本龍一 メディアバーン ライブ・Media Bahn Live(CD)を聞きながら打ち込んだ)

2017年7月30日(日)



宮沢りえ 撮影:篠山紀信 Santa Fe」、朝日出版、1991第9刷





 届きました。非常に状態のいい物でした。

 ザっと1回見ました。ヘアヌードってどれかなと思って、見直し、草原で明るい光を受けて座っている感じのいい写真のちょっと黒いという控えめなものでした。



 感想ですが。快楽の館と比べて、僕は断然こちらがいい。モデルが、僕の若い時の力のあった・りえ氏だからというのも理由のひとつだと思う。

 海外ロケの開放的な中、宮沢りえの精神状態と体調の良さ、篠山紀信氏のりえ氏のその時を写し込んだ、写真のことはわからんが力のあるゆえなのだろう。(説得力なし・梨)




☆☆ 正直な第一印象は、現地が明るい(晴れの日撮影)、表情がいい、裸が解放的で綺麗、清潔で光が真っ直ぐでどこも照らしているその光の曇りのなさ、たぶん紀信氏と、りえ氏が現地の空気・光のなかで呼吸し合い感応したのだと思いたい僕の願望評価。


 この写真集、古いので重い。すぐ手放すのか、ずっと持っているのか、今は気持ちのいい印象を持っている。






(この写真集に感応して書いた感想:)


・ りえ氏は歳をとり、この時の状態は過ぎ去った。僕も青春は終わり、爺に両脚突っ込もうとしている。残酷にも老いを食い始めている。これから貪(むさぼ)り食う羽目になる。

見た目、反射神経、動作、禿げ、みな落ちていく。りえ氏の美貌の求心力は終わったと言っていい。僕も老いてきている。

森三樹三郎氏の言うように(生と死の思想)、ゼロから生まれ、システムを築き、ゼロの土へと還る(僕の脚色理解)、その何もなさから繁茂(はんも)し何もなくなる潔(いさぎよ)さが命と言える。ネジ曲がることは命には許されていいない。僕も頭(こうべ)を垂れ真っ直ぐに従う。あたえていただきありがとうございました。

と言えるようになりたい。





・ りえ氏の青春が封じ込められている。塗り固められている。いまは違う姿になっている(中年へと)。封印されたのは過去の輝きで、誰も戻れない。輝いているときは気づかない。終わって、輝いていたと気づくだけなのか。時間は命の輝きを収奪(しゅうだつ)する。持ち時間も減る。明日は来ないかもしれない。(僕は楽観していて、そこまで思っていない)


 いまを輝き切ること、輝いて眩(まばゆ)い光を放ち隅々まで照らしきる、光りを届ける、光線となってはるか遠くまで光が進むグングン伸びる、そうありたいし、それをしないと、僕の命は小さく固まり黒ずんで干からび吸い取られ袋小路に落ちるだろう。

 サンタフェのりえ氏の写真集のように、輝くことを、今を切り取り発光することを目指せば、命はそれでいいのだろう。明日は来なくても。