捨てる部分

パソコン故障したらしいです。

パソコンにバックアップを取ってハードディスクの修理に出せと言われました。起動画面が黒だったので(英語)変だなと思いました。

それで、これからどうなるかわからないので、先のことは未定です。このブログも更新が滞る(とどこおる)かもしれません。

では。






2014/11/21(Fri) 金曜日

 お医者さんの新しい薬を飲んだおかげか、今日は過ごしやすかった。

 2日前の作業所で、スタッフの方、僕の上司は、遅れてきた人に対して遅れてきた分だけ居残りさせてあげた。それで遅刻という扱いにならなかった。また、別のメンバーで、調子の悪い人が帰ろうとしたら、あと5分いたら掃除だから帰ることで責任を取る必要はないというニュアンスの助け舟を出した。どちらも名采配だった。

 これに対して僕は、僕はどちらの人にも辛辣な気持ちで見ていた。どちらも切り捨てる目線で見て、心の中で感じていた。これは、僕の父母が辛辣な批評家で、僕の心の中に父母の辛辣な批評家が居座り、僕自身になったためだと理解している。今の僕の目線は冷たいけれど、僕自身とは言い切れないという理解。




 捨てるという内容でひとつお話をさせてください。

 僕は、作業所の中で孤立した立場で、みんなと自由に話したり、話しかけることはできません、いまのところ。人が怖いです。これは加藤諦三の言いたいことが言えない人、にでてくる、恥ずかしがり屋のパターンにあたります。


 僕は孤立していて、みんなに打ち解けられないで焦ります。

 ここでストップです。昨日の話の続きですが、できるという見方です。自信をつけるやり方。
僕は作業所に休まず通っています。他の人と話せなくても、きちんと作業をし、食事をし、帰ります。やることはできているのです。自信をつけるにはこれを核にする必要があります。

 作業所に通えて、みなの中で作業し、きちんと帰ってくる。これができる。通えて、作業ができて、ローテーションを守っている。できる部分です。


 他の人に話しかけたり、打ち解けたりはできない部分です。この皆と普通に、皆と同じようにができない部分です。

でも、さっきの部分を核とするなら(作業し食事しローテを守る)、他の部分は捨てていい。捨てていいというか現段階では捨てるべきだ。拡張しようという流れよりは、核だけ残し、あとは切り離して考える必要がある。広げることに焦るより、できている部分で安定したほうがいいと思う。これが捨てるという基本ラインのありかた。


 他の人が打ち解けられたり、仲良くやっているのをどう処理するか。これも加藤諦三さんの言いたいことが言えない人のように、僕はボロ屋の心が安定しない、土台が曲がっていて、傾いた家なのだから、他の人を見て羨(うらや)む必要はない。

他の人は育った家庭環境が違うし、内面の安定度が違うのだから、僕と比較するのは間違っている。僕は弱い土台のボロ屋で、作業所に通えてローテを守っているのだから、これを核にし、やはりさっきのように、他の部分、他人のようにしたいという拡張部分は捨てるべきだ。


 できる部分を安定の核とし、他との比較で寂しい部分は捨てるべき。一羽一絡げ(いっぱひとからげ)に皆というのも間違っている。皆それぞれ事情が違う。羨む視線がそもそも怪しい。僕はほかの人のようにいかない部分が争点になっていて、大事なのだから、できるを核にし、そこを安定ポイントにした方がいい。

僕自身の個別の事情を最大考慮に入れる見方を自分に求めたほうがいい。(家族関係で躓いて(つまづいて)、それでも、僕は自力でここまで来た。)