リコーダー(サッパリする)/エリクソン、自我同一性 


 前にいたところの作業所のスタッフの方は、ゴルフをするとスッキリして、サッパリした気分で没頭できる、みたいなことを言われていた。

 僕は、1日おきくらいにリコーダーに触るけれど、リコーダーを吹くと鬱々としていた気分がスッキリする。サッパリ気分もリフレッシュされる。向いているかもなあ。




・ エリクソン、「自我同一性」アイデンティティとライフサイクル、小此木啓吾 訳編、誠信書房、1973


第2部 健康なパーソナリティの成長と危機



p123(第7章 成人期の三つの段階  完全性対絶望と嫌悪)
~それは、自分自身のただ一つのライフ・サイクルを受け容れることであり、自分のライフ・サイクルにとって、存在しなければならないし、どうしても代理がきかない存在として重要な人物 significant を受け容れることである。かくてそれは、自分の両親に対する今までとはちがった全く新しい愛であり、両親がもっとちがっていたらいいのにという願望から解放されることであり、自分の人生は自分自身の責任であるという事実を受け容れることである。~

p124
~個人の人生は、ただ一つのライフ・サイクルと、歴史の一節との偶然の一致であることを自覚しているからである。そしてまた彼は自分にとって、すべての人間的な完全性というものは、自分がともにする完全性の一様式と、興亡をともにするようなものであることを、よく熟知しているからである。



引用者(kurage0147130):

 僕は精神病の父と、僕を受け容れてはいない母を、拒絶・否定している面はある。父が精神病の血をもっているから、僕は統合失調症になっていると思う。

 けれど、この病気の僕はもうすでに人生を歩んでいる。引き返せないし、停滞して進まない人生だったけれど、これも僕の人生の主要な基調になっている。僕はただただ待たされてきた。よくならない限り前進しない。よくなることを待ってきた。もちろん自分なりに活動はしてきた。けれど結局のところ、自分の病気が好転することを待つという受け身的な所が僕の根幹だった。

 僕はこの病気と歩んできた。どうすることもできなかた。父や母を否定する気持ちもある。でも、そうしてもどうにもならない。僕にこの病気は預けられている。僕はこの病気を担ってきた。歯を食いしばり、向かい風を踏みしめてきた。そこのところは、僕は誇りに思う。僕の病気であり、僕の歩んできた病気だ。この病気とともに僕の人間性はできてきた。病気抜きに僕という存在はあり得ない。偏った父母の存在も、彼らの土台の上に僕は存在している。父母を超えられればいいのかもしれない。今はまだ荷が下りていない。父母への非難が僕の中で残っている。

 でも、この本を読んだから(第2部しか読む体力も、予定もない、全部は読めない)、僕は自分の人生を全うしたい。偏った、限られた、負け人生の僕の今までの生活。この負けというのも、僕がこれからいろいろ体験する中で改善されることを願っている。いまは、この負けという表現に、僕の今の精神的な脆(もろ)さが表れている。限られた環境と、限られた時間と、限られた経験の中で、僕も本のように、自分の人生を全(まっと)うしたい。積極さを希望している。