+のろまの僕 / 青白い顔の僕 足し算できればなあ(プラス)。

イライラするような、モヤモヤとなったので、林へ歌いに行った。公園に日向ぼっこの人がいたけれど、林へ入って歌ってきた。向こうもそんなには気にしていないように思えた。?


 エアーバッグ、憎しみを込めようとした。久しぶりなので新鮮だった。たいしてよくなかった。

 パラノイドアンドロイド。一回目、たいしてよくなかった。だいたいの感覚を掴んでおいたので2回目に進んだ。

 2回目は、雨落ちるのところから歌った。父の首をなんとかのきもちで歌い、8割の成功で満足した。締める感覚もあったし、声もノリがよく、よかった。

 帰り道は、水分のなくなった、干し椎茸のようになり、疲れ切り、自転車の進み具合も鈍かった。だいたい僕はのろのろ走っているけれど。のろまのうすらばか。ぼくのこと。



追記




 僕は父が変だから排除しようと思った。父のやり方の踏襲。

 けれど、変な父を含み、変な父を入れて家族として完全だと思えばいい。

 社会でも、いろいろな人を含み、完全な社会で、ひとりひとりは一員だと。僕もその一員のひとりだとなればいいなあ。僕はその一員のひとりになれない。なぜなら僕は違うから。違う人は排除されなければならない。

 それが僕の見方。だから僕は不幸だ。他の人と違う僕も含んで、社会は完全だとは考えられていない。劣ったり、劣勢に違う人は排除しよう、それが僕の見方。父譲りの見方。違うから別物だと。別物も含んで完全な社会だとみられない。

 手芸だけがいいのではなく、いろいろな活動の一つで、いろいろな活動を含んで完全な社会だと。手芸だけにこだわるのではなく、いろいろな活動の存在を見て、すべて等価に見て、手芸は部分だと、全体の中の一つの手芸部門をやっている、手芸に固執し、手芸だけ特別にみるのではなく、世界を見渡せればいいなあ。


 父の特徴はものすごい固執と執着だ。怖いくらい執着する。怒りとともに執着し固執する。僕は父という存在の壁の前で躓(つまづ)いている。超える方法は、父以外の存在に触れること、かな? 父の執着を僕と関係づけるのではなく、父に返すことはできないだろうか、父の持ち物だと。






2014/8/17(Sun)


・障害児3兄弟と父さん母さんの幸せな20年、佐々木志穂美、角川文庫



 感想として、障害があろうがなかろうが、父母の、子供を愛することにあふれていた。線引きはなかった。子供その人の特徴を母はよく見ていて、個体として接している。子供は問題を起こすけれど、嫌なこととは見ていない、その子が織りなす出来事として受けている。


 子供の状態と関係なく、父母として接し、父母として子どもに関わった。相手の状態より、父母として愛を注いだ。親子関係があるという、親の子へのやさしい眼差しがあった。障害があっても、子供を完全とみている。一人の一個の完結した存在だと。貶めたり嫌がったりしない。

逡巡はあったのだろうけれど、家族を営んだ。そう、家族として完全だった。周りの人の助けがいっぱいあった。やさしい眼差しのもと、育っていったのだろう。



・生きるためのサッカー、ネルソン松原

という本が道新書評に出ていた。本のタイトル通り、生きるためのサッカー。金とか、強くなるとか、含んでいるのだろうけれど、生きるためにサッカーがある。僕は狭い視野狭窄で物事を見るけれど、そうではなく、いろんなことを含んで、丸ごとサッカーを生きるという、僕の痩せ細ったやり方ではなく、黒々と太った野太い生き方、何もかも包摂するような逞しいサッカーに情熱を注いだ、サッカーを生きるなのではないかと、読んでもいないのに想像した。


 作業所でスタンプ押しをしていて、お客様とかやったけれど、僕は視野狭窄で痩せ細ったやり方だった。狭いところに押し込むような、自分を閉じ込めるやり方だった。
生きるサッカーみたいに、何もかも包摂するような、まわりを取り入れるような、たくましさがなかった。

 痩せ細った、視野狭窄の青白い顔の後ろ向きの僕がいた。

 閉じ込めるやり方ではなく、開くやり方にするにはどうすればいいのだろう。マイナスする引き算の見方、限定する見方ではなく、プラスの加えるやり方みたいのにできたらいいなあ。