9/1 Fri /題あり:プロセス管理:りっしんべんにこころ

9/1(Fri)

 自転車をこいでいる道路の先に、一段低いところで草野球をしていた少年たちの野球ボールが転がってきた。自転車を置いてねげ返そうとして、フェンス直撃で戻ってきた。もう一回投げるけれど、少年たちのいるところより右側に落っこちた。低い柵の僕から見て右側。少年たちは跨がないといけない。

 どうにも2回投げたけれど、予期せぬ方向に飛んでいく。僕としてはきちんと投げ返すつもりだったけれど、あらぬほうへ行ってしまった。父とキャッチボールをしていた10年くらい前はできていたけれど、全くやっていなかったので、全くのど素人になっていた。ちょっとショック。壁ぶつけでもしようかなと思った。




8/31(Thu)

 今日も作業所は走れていなかったと思う。ちょっと調子がいいかなと思ったら、女に対する性欲が前面にきてしまい、作業に集中できなくなった。最初の1時間半くらいはよかった。あとはよくなかった。




中段(本題というほど突き抜けない)プロセス管理



 最初の作業の1時間半で感じたのは、僕はできる人になろうとしていたこと。それがわかったのは、ゆっくり歩くみたいに、ちょっと違う、だいぶ違うかもしれない、プロセス分解したから。作業を細かく分解して、分けて、1動作・1動作ずつ理解しながら進めようとしたから。

 作業を分解して、一つ一つ理解して、判断して、動かしていくと、(プロセス管理)、できる人になる必要はない。確認作業に頭を使い、動作に神経を使っていく、プロセスに神経をいきわたらせる。




 僕にとってのできる人は頭を使わず、何も考えず ひょいヒョイ できる人。でもそんな人がいるわけがなかった。そしてそんなやり方堕落だ。僕は間違ったできる人像を頭に描き、そういう間違った人になろうとしていた。




 その1時間くらいは頭をだいぶ使った。たぶん正解のやり方だったと思う。前の作業所、革細工の時にはやっていたやり方。

 僕は自分ができないから先を焦って急いでいたかもしれない。人が多い作業所だし、圧倒されている部分はある。


 
 一足飛び(いっそくとび)は止めたほうがいいらしい。全部の動作をプロセス管理でやって、無我夢中で先を突っ走る、僕にとってのできる人・間違った像は捨てたほうがいいらしい。僕のできる人(ひと)像(ぞう)は大間違い。一番小さい動作、1動作を積み重ね1単位にする、そういった分解した動作とその集成で一つの動きを作るのが僕にとっての正解。








別段



 女に写生するのは正しいのだろうが、女に向かう、その向かい加減が抑圧している僕は折れている。真っ直ぐ(まっすぐ)女にベクトルが向かって行っていない。

 女と精巧するのは正しいのだろうが、女と直に(じかに)向き合う自信が折れている。女に対するベクトルがネジ折れている。


 疑問はある、写生すればいいのか、精巧すれば男なのか。可能ではあるが、行っても男ではない気がする。能動力が男の証か?


 関係性が男の証か? 写生力か(オットセイかとも思えるが)? 精巧力か?


 僕が男になるカギはどこにあるのか。ゆっくりあるくで軸がブレるのは、男・性・ペニスと密接なのはわかっている。

 自分の男と向き合うというのは、女という媒介が必要か? 僕は男としての確固たる像を得ていない。未分化、線が不明瞭。
 男は、やはり自分の身体の声を聞くことか? 抑圧を行っている身体自身の言いたい喋りたい声に耳を澄ますことか?


 身体の声を聞けば、密接度は深まると思う。この辺怪しい、臭い、脈ありと思うけれど。カウンセリングの先生の目指している線とも重なると思うけれど。