家族キャンプ:ポロピナイキャンプ場、僕が小学生の頃の話。

 前回の父とのキャッチボール・登山で、最後に「思い出をありがとう」と書いた。カウンセラーの先生に、これはブログだから書いたのか、取ってつけて書いたのか、みたいなことを聞かれた。この最後の言葉は、受け狙いではなく、まったく自然の流れでポロっと出た。先生にも言われたけれど、前の僕だったら父にこだわっていてこのようなことは書けなかった。父が亡くなったからかポロっとかけた。

父とのキャンプ:小学生頃:EMDRのカウンセリングの先生に勧められている自分史

 僕が小学生頃、父、母、僕の3人で父の車に乗ってキャンプに出かけた。目的地は支笏湖のポロピナイキャンプ場。モーラップキャンプ場のほうが有名だけれど、家族はこちらで一泊しに出かけた。
 テントを張った。このテントが、父の学生時代のテントで、昔の漫画に出てくる三角のテントで、生地はオレンジ色のキャンバス地、厚い布製の生地で、支柱も折り畳んであったのを伸ばして真っすぐに2本立てる。一人では設営しづらい二人向けのテント。寝るのは3人寝られた。このテントには、父がマジックで書いた家紋・九曜紋(くようもん)が描かれいた。父は子供っぽい。寝袋も市販の夏しか使えないような安いブルーの寝袋で3人寝た。一人だけ空気を入れるエアーマットを使ったと思う。たぶん僕が使った。父母は疲れたろう。

 父は学校の先生だったので、夏休みに出かけたキャンプは父を知っている人も来ていた。挨拶に来た人がいた。父はやりづらいキャンプだったと思う。
 支笏湖にはエビがいて、浅瀬のエビをザルか何かだったと思うけれど取って、水際の砂地を掘った水溜りに取ったエビをストックして貯めておいた。そのエビが、夜中の満潮で、水が砂地の水溜りまで押し寄せエビを流してしまった。夜中か朝気付いてがっかりした。
 
 キャンプの夜食事は何を食べたか覚えていない。僕がうらやましかったのは、スイカを水で冷やしてスイカ割りをする人たちがいたことだと思う。たぶんスイカ割りをしたのだと思う、記憶に残っていないが。うらやましかった記憶は鮮烈に残っている。ジュースとかビールも冷やしていた人たちがいた。
 夜は花火の音がしたと思う。もちろん来た人たちが楽しむためのもの。僕は暗いテントの中でラジオを聞いていたと思う。小学生の電気製品でステータスはポータブルラジオだった。イヤホンで聞いていた。灯油で灯す・ともす ランプはたぶん持っていったのだと思う。たぶん点けていたろうと思う、記憶が定かでない。
 せっかく家族できたキャンプだったけれど、今思うと、家族3人の影は薄かったと思う。それは父の知り合いがキャンプ場に来ていて、見られているというのも影響するからだと思う。

 僕は朝、もっとキャンプをしたかったけれど、父母は朝小っ早く・こっぱやく 出発した。たぶん食事もとらないで出た。これも見られているという事と関係していたはずだ。キャンプ場は、僕の家のあたりとは違う、大柄のカラスが群れを作ってガアガア鳴いて強烈な印象を受けた。少し恐かったのかも。
 ポロピナイから支笏湖の中心地・お土産温泉街までは有料区間だった。それが早朝だとタダ行けたのだ。僕は小学生でも、そのことはお得感を感じた。父母はなおさらだったろう。家は・うちは しみったれのドケチだったから。支笏湖沿いの道路・有料区間だけれど早朝のためタダの道路を通って温泉街へ抜けて走った。この区間は、グネグネしていて走っていて面白かった。
 こうやってせっかくのキャンプだったけれど、影の薄いまま、あっけなくキャンプは終わった。

 銭箱・ぜにばこ の方にも一度一泊でキャンプに行ったけれど、こちらはほとんど覚えていない。混んでいたのと、着替えるところがなく、またトイレが汚かったことがうっすら思い出される程度だ。

 結論:影の薄いキャンプだったけれど、僕にとっては小さなことでも大事な思い出だ。僕はエビにこだわった。朝まで残っていたら、採って食べようと考えていたからだと思う。エビのそばは、温泉街にメニューとしてあった。食べたことはない。食べたかったけれど父母に言えなかった。ここは悔いる・くいる。父は千歳では顔が割れていた、自由の身ではなかった。