自分で自分褒めを実装してやると、油が差さると思う。(余裕が生まれ自信ができる)

父は、勉強しろと言った。僕は勉強しなかった。父は、勉強以外の行為を認めていなかった。裏面交流で、勉強以外ダメだと言うメッセージを受け取ったと思う。勉強のできないやつはダメだと。僕のその時には、その時にできること、すべきことなど、僕の成長にとって勉強以外で大切なことはたくさんあったと思う。それらは無視され砂のように両手からこぼれて落ちて行ったと思う。
 勉強しなくちゃいけない、という強制力があった。

 今僕は、織りをしなくちゃいかないと思っている。定年後も仕事があるように。織りをしないと定年後はない、というメッセージを裏に嗅ぎ取っている。しないと大変だ。
 織りを自分のものと言うより、親に強制された勉強のように見ていると思う。
 
 織りを自分のために、本当の意味での自分の手に取り戻すには、ダメだという視点ではなく、今日は織り機をセットした―よかったね、デザインを書いてみた―よかったね、という自分のすることに、自分で肯定的な声かけをしてやることが必要だと思う。自分のやることに肯定的な回路を築くために。親の作った回路―ダメだ・大変なことになるよ、ではなく、織りをして―よかったね・回路を作ってやる。肯定的声かけを自分に対して投げかける訓練が必要だ。ここはどうしてもやる必要がある。大変だけどよくやったね、織りの糸張りができるね、デザインは初歩的だけれどなかなかいいじゃん・春らしいじゃん、というように、やっていてしなくちゃ・できなくちゃで一杯いっぱいになっていたのを、一つずつ、自分で自分を褒める、という作業をやる必要があると思う。それも、こまめに、逐一褒めるといいと思う。
 織機をセットした、デザインした、糸を少し張った・真ん中まで来た・3分の2できた・終わった、捨て織りした、糸を杼に巻いた、ちょっと織ってみて柄が出た、端の処理も良し、10センチ織った・20・30・40・・・・と逐一褒めが僕には必要だと思う。ということは、部屋の整理でも・掃除でも少し片付くと褒める、歌でも一曲歌うごとに褒める、という作業・自分に対する声かけが必要になる。晩御飯用意できた・すごいね、とか。僕はしなくちゃ、できてあたりまえばかりになっている。それに追われて、あたふた、余裕がない、油が切れている、急がなくちゃ、も脅迫的に入っている。
だからシステムとして、自分をこまめに褒めるというのを実装してやったほうがいい。そうしたら、自分も世界も回りだすかもしれない。