父母 / ボロい抑圧


・ 父の病室の、4人部屋だが、隣のSさんが、水が欲しいと訴えていた。家族ではないので放っておいたがSさんはずっと言い続け壁を叩いたりした。そのうちあきらめたのか静かになったので、病室の前のナース室へ行き「Sさんが水が欲しいって」というようなことを言って頼んでみた。すぐ看護婦さんは現れ、水の入ったボトルを手渡していた。

 そのSさんは先週、僕が病室へ行くのを見ていて「なんで○○はこないんだ、サポートする人はいないのか」みたいなことを言っていた。家族が現れていなかったようだ。
 それがペットボトルを飲んでから、若い家族が3人、男一人、女2人が現れた。最初遠巻きにしていた。僕がいたからかもしれないが、そのうち昼を食べさせたりして交流していた。5週間くらい現れなかった家族が僕がいるときにやってきたような感じに見受けられた。

 小さい4人部屋のなかでも、ひきこもごも人間模様がある。Sさんも少しは満足したと思う。

 
 昨日の父は、いつものように、ICレコーダーの音楽を一緒に聞いた。最後に父が、左目に涙をためて横を向いていた。ふき取った。なにをかんじていたのかわからないが、反抗的な父ではなかった。感傷的になっているよう見えた。寂しそうな顔だった。ボケたような顔ではなかった。


・ 母のところも1時間くらいいた。何もわかんなくなってきているんだよ、え! と訴えられたが、返す言葉はなかった。母が受け止めてやっていくことになる老化の部類。最後の30分くらい、何もしゃべらず椅子に座っていたが、母は敗北感に打ちひしがれていると思った。僕が統合失調症で社会と接触を持たず引きこもっていたころに似ていた。ものすごい敗北感と、無力感と、人間不信だろうと思われた。母は晩年になって抱え込むことになった。それは不幸だ。しかし母が持って行かないといけない、受け止めるものだと思う。母の苦悶の雰囲気。僕も母と一緒にいる30分間で体験してきた。


 僕は敗北感が薄れ、人間不信も薄れつつあり、かなりハッピーだ。父母たちが今背負っている。立場が入れ替わったかのようだ。母は、入院先を変わることになっている。病院報酬が少なくなるから、転院を勧めるのだと思う。それでも元の施設に戻す気はない。もう終わりにしたいと決めたから。母には新しい施設で、風呂だけでも楽しんでもらいたい、もしくはあったかい気分でいてほしい。行事に参加しなくても、食事がよくなくても、ひとつでも満足してくれればいいのになあと希望している。





・ カウンセリングに出かけた。先生は風邪をひいていた。僕は先生が負担に感じるかもしれないが、来週の予約を僕の都合で別の日に変えていただいた。

 僕が幼稚園の時に、母に人のせいにしないでと言われ、食って掛かるのをやめたこと、このことを取り上げていただいた。

 僕は、母を自分と対等とみていた、彼女のように、それがやめた時から、文句を言えなくなった。攻撃しなくなった。その何日か前まで僕は母に文句を言い続けていた。
 先生は、僕が文句を言えなくなったときに戻るとすると、なんとその時の僕に声をかけたい、とナビゲートの質問を投げかけてくれた。
 それで、文句を言えなくても、心の中で毒づいて文句を言えればよかったと思ったと思う、と、職業訓練先でのことなんかを持ち出して心の中で毒づくパターンをいった。

 そう、母が悪いのでもないし、トラウマではあるが、母が虐待したのでもない、僕の受け止め方が失敗した、それだけの僕にとっての事件だった。
 僕は、現在相手の言葉を真に受けやすい、それは、心で本音を言うことを抑え込んでいるから、口先では相手と合わせ、本音を心の中でつぶやく、このプロセスが僕は不足している。自分の本心を歪める必要はこれっぱかしもない。本心はいつでも保持していていい。対外的には周りに合わせる必要はあるが。そこで失敗したのが僕だった。ここが僕にとっての事件で、他人にとってはどうってことのない話だった。ただ失敗しただけだ。そう、自分の中での処理の仕方を誤っただけ。それをずっと引きずった。ずっとずっと、重荷にしてしまった。

 母に心の中でバカヤローと怒鳴り続ければよかった、という話になる。

End.