股の下くぐり / 自由は存在しないと思う(ゴミ出し工夫


 ジャッキーチェンの映画で悪役の男の股の下をジャッキーが屈辱と怒りに満ちながらもくぐる、というシーンがあった。後日雪辱するが。


 作業所でごみ拾いをしていて、スタッフが立っていて僕が身をかがめてごみを拾うとき、この股の下くぐりを思い出す。ちょうどそういうシーンなのだ。

 スタッフルームの親父的な存在のごみ箱を出す時も、スタッフは椅子に座り、僕は身をかがめてごみ箱を引っ張り出す、これも股の下くぐりを思い出す。



 結局僕は股の下くぐりをしても何も感じないのだ。もちろん格好悪い、なんか下人みたいで変な感じはするが、こういうのは平気だ。それは格好悪いことをたくさんしてきたからだと思う。



・ 僕は自由というのは存在しないと思う。

 大きい学生の時、国鉄(たぶんJRではなかったと思う)に乗っていていて、客室の仕切りの中ではなく、仕切りの外・出入り口の通路に立っていた時、僕は自由を感じた。客室という人間のしがらみの外にいて勝手に立っていたからだと思う。もちろん今思い返すと僕はかなり馬鹿だった。いまでも大馬鹿だが。

 自由はあると思っていた。20代のころ。でも、統合失調症を発症し、作業所3つ目を経験し、人に揉まれるようになって、自由は存在しないと思う。

 生まれるときから制約があって・親を選べない、国を選べない、その後の人生も人の中で暮らし、人に囲まれて死んでいく、自由など存在しないと思う。僕は不満を言っているのではない。そういうものだと感じている。

 楽しみは、人に揉まれながら自分が成長しているという実感を持っているからだと思う。



 自由があるとしたら、制約の下での選択権、もしくは工夫とかかも。昨日はボスがごみの出し方を変えた。ボスには決定権と命令権がある。僕には服従権がある。ごみ箱の上に、いっぱいになってごみ箱の中では収容しきれなくなったポリ袋を出してごみ箱の上に置いて使ってきたがボスが対外的に・お客様に恥ずかしいという。それで冷蔵庫のほうに隠しておくことになった。そのはみ出して収容できない分のポリ袋を。

 今まで帰りにごみ袋をもって外に出て、外のごみステーションに出して帰っていたが、その時見える位置にごみ袋を部屋のところに置いていた。それが隠れることになったので、早めに出すことを、帰りではなく時間を作って掃除機かけの前に出すことを僕は工夫した。
 そして、ごみ袋も、はみ出して冷蔵庫の前に置いたものに、元のごみ箱の少ないごみを中から手で出して、はみ出したほうに詰め替えるか、もしくは、ごみを2つ出すかの選択権を僕はボスからもらったと解釈した。そう僕は工夫する権利をもらった。ごみ出しは新方式に変更になったと言える。