分開(分解ではない)(ランナーからの洞察)/プール日誌

 個人一人一人は、ある志向性、偏向性、特性を持っている。これらは偏りがある。
 

 その個人一人の限界は、いろいろな人がいることで補完されるのではないか。


 個人の限界が、他者存在で役割を分開(分解ではない)されて、偏りのある個人が周りの偏りのある同じではない全く違う個人が多数周りにいるということで補完される。
 他者存在があることで主人公である僕が生きてくる。生きてくるのは、自分にないものを持つ他者から影響を受けるからだ。役割が分散されている。

 その分散された役割の多数集まる集団の一人一人は、偏向した個人だ。違う人間が多数いることは、個人を生かすことだ。影響しあう個人は、他の人が自分にはない能力を持ち、開花させていることに喜びを感じ、すごいなあと思う。自分にないものは、他者が役割を担い・にない、活動していけばいい。


☆これは剽窃・ひょうせつ の考えかもしれないけれど、僕は、大学生がランニングしている姿を見て、僕にはない力を持つ人だと認めた。僕は52歳だし、もし若かったとしてもあの能力はなかっただろう。ランナーの若者は、筋肉を躍動させ、心肺能力も生かし、足早く走って行った。とても光り輝いていた。素晴らしいと思った。影響を受けた。
 これが、上の文を考えた原点の体験だった。圧倒的な他者がいた。





・ 水泳レベルアップシリーズ 平泳ぎ、杉田光一、ベースボールマガジン社

 の本を読んでおいた。理解していないのをやってみて痛感した。

 DVD付属はまだ見ていない。今日は、足の蹴るのをできればなあと出かけた。ビート板につかまり、初めてか4年前ぶりくらいにいちどやったかもでカエル蹴りに取り組んだ。



 ビート板につかまっていても、下に蹴るイメージだと足が沈んでしまい、結果プールに立つことになる。それで、下に蹴るイメージをやめ、水面近くをけるイメージで取り組んだら少しはみられるようになった。でもちょっと沈んだり、ぶれたり、蹴る感覚もはっきりせず、グッチャグッチャだった。

 せっかくだからと、蹴るのもままならないうちに呼吸にも取り組んだ。足を引き付けるときに、水に浸けている顔を上げた。最初呼吸ができなかった。それで本のように、蹴っているときから鼻から空気を出していき、一息取っておく。その一息を顔を上げた時に顔に付いている水を払うように吐き出し、吐き出した勢いで空気を吸う。理屈ではこうだ。しかし実際は水を飲んだりした。空気をうまく吸えなかったりが多かった。

 しかし、うまくいかないなりに、うまくいくように取り組んだのが楽しかった。ウォーキングコース3周、25メートル3往復半、またウォーキング3周で、サウナ室にちょっとだけ入り帰ってきた。プールに入っていてもトイレに3回くらい行った。せわしなかった。

 いやあプールは習っていないので楽しいよ。今は勝手ができる楽しさを味わっている。変な動作でも、自分裁量で取り組んでいるので満足だ。自分のためだけの時間なので楽しい。おまけに泳ぐ経験が乏しいので新鮮なことばかり。



・父のところに出かけた。父は田端義夫の音楽を楽しんでくれた。帰り船とかを声を出して歌おうとした。寝たきりでもできることはあるぞ、とね。校歌も聞かせてきた。偉そうに書いているけれど、僕も歌詞を見ながら歌を楽しんだ。父のイヤホンと、僕のイヤホン、二股になっている。


・母のところへも行ったけれど、母のところは、プールの後に行ったので、充実感の後に着いたことになる。そのせいか、母の機嫌も安定して、おだやかだった。僕が満足して安定していると、母の状態も違ってくるのかなと思った。

・土木工事屋さんに、2件、打診してみた。



 今日は出かける前は、調子の継ぎ目で、イライラしたけれど、むりやりやってみると、結構楽しかった。最低の日でなければ、行うのが良いのだろう。