個人になりつつあるのか?

 お久しぶりです。

 ・だけ読んでいただければ、( )は読まなくてもいいです。

(※ 僕は調子の悪い日が一週間に必ず1回はある、という状況になっています。作業所の周りの評価も悪いです。
 裂織3枚目が完成に近づき、前の2枚がテーラーSG氏の手によるバッグになりました。とても素敵です。
 今日は公的機関の僕の面談があり、ボスがコーヒーを出してくださいました。感謝しています。
 ※)



・ 食って寝るの生活で、シャワーも週1で、湿気(シケ・ショボイという意味)ていますが、ギリギリ回しています。
・ 周りが普通の会話をする中、それに加わらない疎外感に過剰に反応したりして、自己過敏かもしれません。


・ 裂き織り作るというのは、失敗しないようにすると同義語なので、僕にはかなりの負担です。周りから見れば、着物解体だけ今までやってきて楽だったろうになると思いますが、確かに作るのは大変です。かなりの負担を感じています。掃除作業も負担です。もちろんいい意味でです。でも、僕の肩はだんだん重くなってきた。くそー。
 楽をしたかったのかもしれない。もう後戻りもできないや。


( 幸せなやつなのだけれど、重い。
 嫌われてもしょうがないと思っている。僕は調子を崩すようにできているし、皆は僕が悪いと思うだろう。
 
 なんか息苦しい。逃げ道もないけれど、現実の重みに潰されそうだ。



・ 調子の悪いときは、僕の場所で暴力が起きようとし、男やペニスから逃げていることが問われている。僕にできるのは周りをよく観察することだけ。早めに暴力に気づくこと。芽を摘めるかもしれないし。



( 書いていて、僕はハッピーなやつで幸運なのだろうけれど、それなのに嘆いているしょうもない奴に映る。経験したことのないことが次々起こり、対処して、現実も実感し、自分の重さも感じる。
 平和ボケなのだろうか。

 カウンセリングももうすぐある。どこから見ても僕は幸せなやつだ。現実認識が甘い、不幸がる、理想を求めるという馬鹿癖がそうさせるのか。
 今回書いていて、自分が幸せ者だ、ということに気づいた。無駄に不幸がっている、そこが病気かもしれない。


・ 不調は現実認識を変える良い機会だし、ピンチはチャンスという有名なフレーズを実践する良い機会で、後がないのだから取り組み方を変えるしかない。僕という一個の個人が送る毎日という生活
があること自体幸せなことだ。これ以上望むことがあるだろうか。書けば書くほど僕は幸せになっていく。そして重く、個人になる。単体というべきか。


( 毎日が苦しく感じられ、重く感じ、愚痴りたいだけの甘ったれなのかもしれない。そうなのだろう。

 でもやはり、潰れそうで、苦しい。せっかくだから、愚痴で終わる。
)