首の山登り のようだ。(前半後半の2段階に分けて書いた)

 
前半:::
 最近低迷していました。お察しの通り。

 思ったことがあった。最近の流れ、表現するというもの。仕事が大事だというのを表現する方向がいいのではと。

 それを拡大するなら、家事でも、勉強でも、リコーダーでもできそうだ。家事なら、台所がきれいにすることで、台所仕事が大事なのを表現している。勉強・読書なら、読んで感じていることをいろいろああでもないこうでもないと広げる思考を持つとか。リコーダーは、こういう風に吹かなきゃではなく、こうしたいこう表現したいこうだったらどうだろうどうなのだろうと試したり。

 そう、こうしなければ、やらなければならないというのはないのではないのか。世界は表現することでできているのではないのか。自分が取り組み、自分としてはこう表現するという関わりで成り立っているのではないのか。

・ 父母という抑圧的な存在と関わりではなく、自分の側から環境・世界・集団の中へ自分というフィルターを通した表現活動を行うのが人間なのではないのか。




・ 僕は作業所で今日も寂しくなった。どうしてこう扱ってくれないのだろうと。これってひどく小さく後ろ向きで受け身的。
 そうではなく、自分の表現として、自分ならこの人にはこう関わろうという自分の理解を通しての表現をその人に向ければいいだけの話の気がする。


 先週の土曜日は、EMDRの1時間半の枠を使いました。実際EMDRは行われなかった。自分の傷ついた男・ペニスに向き合おうと地下室に降りて行きましたが(治療イメージ・意識下に降りる大道具)、骸骨男は鮮明に見え、いつもと部屋の雰囲気は違い、骸骨男の地下室に窓を切り開けて外へ出たが、そこは瀬戸内海のようなところでお花畑で寝転がって太陽を日差しを浴びました。骸骨男の奴、妙に元気そうでした。僕のイメージしたどろどろではなく、健康的な雰囲気で終わった。部屋の床はびちょびちょでぐにゃぐにゃだったが。

 何も僕の側の治療する傷は見当たらなかった。先生の人生を少し拝聴した。僕も少し喋った。人間、他人事の話はあり得ない。みな自分にも降りかかるし、自分と関係がある。どんなに遠く、離れているように思えても。そんなものだ。この辺はお察しの通りボカシテいます。




後半::::::

 首の山登り、始まったようだ。21年間、服務し、負け続け、地下に下りたままだったが、また世間に出られそうだ。首が伸びてきた。これは明らかだ。首が伸びることは、その反動で、不調も経験し、周りから突き上げられそうになったりもする。危機がすり寄ってくる。

 首の山登りは、21年前、札幌市真駒内で小高い公園で自転車を押しながら林の中を歩き回って、負荷をかけ、首を伸ばそうとした行為だ。山を登るから首の山登りなのではなく、短期間で延髄が伸び、それに伴いまわりから突き上げのプレッシャーがかかり、その延髄を伸ばそうとする行為が、最初が少し伸び、基礎部分が伸び、最後の段階に来ると、延髄周りを伸ばし、核を伸ばし、さらに核を伸ばし、核が一度持ち上がって落っこちたのが21年前だった。僕は登ったと書いたが、実際、終わったら統合失調症になったし、不調になった。今回はこの時の落っこちたのが修正されて、社会復帰できると目論んでいる。

 もし首の山登りで社会復帰できたら、歌で自己表現したい。まあこの齢だから、大した成果は出ず、やはり手芸をやるかもしれんが。延髄が登って、歌がどの程度使えるか、量る作業が楽しみだ。上手く行ったらラッキー、ダメでも人生経験を積んできたのでさっさと見切りをつけ、得意分野を見つけてそちらに注力するよ。柔軟に。ダニの日本脳炎が怖かったけれど、そろそろ虫の活動も終わるだろうし、山で歌ってみたい。sketch show を youtube で聞いている。hosono haruomi さんを追いかけている。