追記:歌 / スーパーマンではなくミミズ・ニョロニョロとして

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追記: 林で歌った。

 林で歌う大馬鹿者として行った。

 今日はよいところは少なかった。ある部分は成功した。

 rolling stones  paint it black をうたった。憎しみを込めようとかしたけれどどうにも不発。hmm の所を憎しみでやろうとしていたけれど、なぜか大の男の大人が大泣きするような歌い方になった。これが結構成功していた。うまく嵌(はま)っていた。

 不発の本編も、大泣きスタイルで歌えばよかったのかなあ。ちょっと今後悔。憎しみに固執していた。柔軟にやってもよかったかも。僕は頭ごなしに歌おうとするところが強いかも。
 
 今日は不発の歌と言うところで満足しようとした。今度成功しようとかではなく、不発だった歌自体に満足していこうという、限定失敗部分に満足を持とうという新たな距離感で事後処理した。



平成30年1月20日 土曜日

「スーパーマンではなくミミズ・ニョロニョロとして」




 ・太極拳をはじめませんか、王茂斌

を、3日目やった。身に付けようと思い、一動作のタイトル、例えば1.天地通行 気入湧泉 というように、準備運動ひとつに付きタイトルを紙に書きながらやった。

 この間の突っ立ってやるのに気が足底から入るというのは嘘だった。自然姿勢は自然を感じながら適度な緊張のもとリラックスして立つ、というのでやるらしい。さっきのタイトル・気入湧泉から気が関係して足底から入るイメージを持つらしい。今日は、1.天地通行だけやった。僕は大嘘つきだった。


 この準備体操も社会的な運動としてタイトルを紙に書きながらやった。一動作を社会的な太極拳と言う運動のなかの身に付ける一つの部分ととして。


 読書も、グルントヴィ・世界における人間(内容が古くてちっとも面白くないや。僕は学術的な人間ではないので興味を持てないし、1割も理解できていないけれど。この時代の哲学の考え方としてやってるのかなあ、くらいしか理解できないや。)、弱虫でいいだよ、植物はなぜ動かないのか、南洲翁遺訓とちょこっと読んだ。ちょこっとずつしか読んでいない。



☆ 僕は、全部身に付けようと思ってやろうとしてきた。手芸ならタイユール・鈴木健次郎みたいに全部できるようにならなけれ、目指さなければと。
この間の少しの前進で、少しの部分に満足するという考えは、弱虫でいいんだよの見開き2ページ読んだら満足するとか、そういう方向に進むことになった。僕はどんどん本を読んで、どんどん頭がよくなって、どんどん勉強できる人にならなきゃとか幼稚園児みたいな見方だった。そうではなく、見開き2ページをきちんと社会的な刊行物の本の辻信一さんの弱虫でいいんだよ・の理解をするという、限定された、わずか2ページに満足していくという、ちょっとの前進で満足する・理解する方向へ動くことになった。スーパーマンではなく、ごく限定されたちょっとの前進・進歩に満足するという、限定された人間に開かれていく道筋を見出すことにつながった。



 4ろのご、という碁の幻冬舎の子供向け教材のセットがあるけれど、前ならどんどんやって7ろのごに進んで、どんどん身に付け碁ができる人にならなきゃとか思ってきた。そうではない。4ろのごの1ページ進んだ。この1ページ身に付けたで満足する。すごく限定された限定された人間で満足する、限定された人間になるという道が開かれた。

 だから、本もどんどん買う必要がない。物も増やす必要はないかもしれない。限られた部分の人間としてやっていく。


 手芸の作業所に在籍していた時を振り返ると、どんどんできるようにならなきゃと思ってきたけれど、手芸の作業所の着物解体作業員で満足する、札幌のA型作業所の一員と言うすごく限定された、限られた部分に満足していくという方向でいいと言えるなあと思う。




☆ 女性も美しく若いではなく、肉がたるんだ美しくなく50歳の女性を50過ぎの格好良くない僕が愛するみたいな、限定された部分でいいのではないのか。

 この限定されたというのは僕のあらゆる部分を小さい満足というキーワードで規定して、限られた部分からの満足を吸い上げるという方向に開かれることになると思う。限定・満足という強力な見方と武器だと思う。