掃除

・世界における人間、グルントヴィ、風媒社、2010

 読んでいますが、とても硬い。宗教的で神を前提としている。200年くらい前の人だから当然なのだろう。今読むことにしてよかった。あまりに硬くて教科書的で、学生に所属していた当時の教科書を思い出させた。10%くらいしか理解できない個所もあった。とても倫理的で理解しづらい。久しぶりなので面白がれるが、ずっとこの調子で古くて倫理的で硬かったら投げ出すかもしれない。
 ただ、この名前、グルントヴィという響きに惹かれるので読み進められるかもしれない。僕はこの人が好きだと思い込んでいるので付き合っていけるだろうと今のところ楽観している。





・ 部屋の掃除だけれど、ただ収納すればいいわけではないと思っている。残すからには、片づけるからには使うことを前提とするし、使うことは生活することで、生活するとは環境に働きかけ、環境とともに時間を使い、物自体からも影響を受け、ものにも働きかけることだと思う。

 限られた物、空間、時間、肉体のなかで、ささやかに僕の暮らしを使い、回し、共に歩む部屋を慈(いつく)しむ行為が、掃除・生活・暮らしだと思う。部屋を明確にしないと片付かないと思う。全部を残すことも、全部を片付けることもできないと思う。区切り、仕分け、捨てる、分離が僕の暮らしをはっきりとさせると思う。あいまいな部屋は、片付かないとイコールだと思う。僕も部屋に試されているのかもしれない。

 汚い僕の部屋は、僕自身がゴチャゴチャで曖昧で、未決断で、未熟を映してきた。だから、それらと決別し、新たな部屋との関係に入ることだと思う。厳しさがないと部屋は片付かない。ぼくはまだ曖昧な中にいる。残し共に歩む物、それらに明確な性格付けを求められる。使うという前提。使うと言うのは、今の生活を規定し、先へ進む目標を明確にし、僕を規定する。僕が部屋から作られ、僕が部屋を作る。部屋と言う環境を掃除することは、僕自身に求められ、決断を迫る。いままでの逃げは汚い部屋しか生まない。はっきりしなければならない。片づけて終わりというわけにはいかない。生活をこの空間で回すという毎日を厳しく問われているのじゃないかな。??? (曖昧なまま終わる。いまのところ取組中なので。)