逃げ腰+カウンセリング

平成29年9月13日



 最近、格好の良いことを書いていますが、本当のところはこうでした。


 今日は休みで動物愛護団体のボランティアに出かけた。昨日戦意をなくし作業所から帰ったので、明日への布石にしようと思った。



 モップをかけていて、ボランティアの人の面接があった。その人が席を占領していてモップをかけられない場所になっていた。そこは置いておいて別のことをしていた。そして、一段落ついたので休んでいて、水を捨ててもいいよと言われた。僕はその通りに捨て、作業を残したまま終えた。そして、窓を拭きながら猫と戯れていた。権利とばかりに。


 僕は業務を遂行しないという結果のまま帰ってしまった。帰り際、スタッフが不満そうだった。

 カウンセリングの先生にそのことを話すと、そりゃそうでしょうよ、みたいに言われた。僕は、この件が水を捨てる時から引っかかっていた。

 まだ終えていないのですが、水を捨てて終えてしまっていいのですかと確認を取るのが筋だった。もしくは、お客さんが帰るまで待って、モップを終えてから帰ればよかった。それが正しい。僕は腰が引けて、昨日からの逃げ腰を引きずり、甘えていたといえる。負けたままゲームを終わらせていた。僕は敗者だ。






 カウンセリングでは、ペニスの機能不全について、前回に続いてEMDRしてもらった。

 僕は、男としてエネルギーがストレートに女性に向かわないということになっている。高校生だった頃の、バスから手を振ってくれた好きだった娘(こ)に手を振りかえせなかった構図。作業所の若い女性に固執するねじ曲がりの構図。



 これらは、父から抑圧的というか、上からの力で抑え込まれ、女性に興味を示すことを抑制され、そういう雰囲気で育ち、実際に深夜放送の助平番組を見ていて手をあげられたりとか、被抑圧者として存在していると思う。




 父自身を見ていて、父自身が祖父から傷つけられたと思う。だから、憎しみと怒りしか表現方法がないのだと思う。とても受身的で、被害者という立場をとることが多い。僕にとっては抑圧者だが、父が成長の過程で傷を負い、それの解決方法がないまま、その傷と向き合わず越えることがないまま、全く身動きのきかないまま一生を終えるさびしい存在として、成長を知らないままで朽ちる。




 今は父の小さい面にも目が行くようにもなった。僕は父からかけられたロックを外すことはできる。僕自身が昨日のブログのようにママチャリで凸凹道を走りに出かけたり、携行ストーブで茶を沸かして飲んだり、もしくはオータムフェスタで買い食いしたり(うちの家族は内食ばかりで外食に行かない。買い食いしない。人生の楽しみを知らない、幽閉のような生活を送っている)できる。これらはロックに挑戦することで、自分で外せる。



 ちょっと前に思ったけれど、宮沢りえの写真集を買うというのも、自分のロックに挑戦しているといえると思う。小さい一歩ですが。






 実際に今日やったことは、本の整理。150冊くらい処分することにした。仕分けた。全部で半分くらいになった。

・人生がときめく片づけの魔法、近藤麻理恵サンマーク出版 の影響。単純です。


 本は完全に仕分けたわけではなく、不純物も混ざっている。まだ絞れるけれど、絞らない。未練がある。この辺が良くないところだとわかっているけれど、今は絞らない。ほとんどがときめく本になったとは思うけれど。
 読まないだろう本は置いていないと思う。興味のあるのを残した。愛のあるのを。




 父からかけられた呪いのロックは自分で少しずつ外せると思っている。そのためには行動に移さないとだめだ。この辺は厳しいことになっている。なにもしないと、ロックをかけられたまま、身動きが利かないと不平不満を思うことになる。甘くはないです。

 今日はカウンセリングの先生を見ていて、EMDRを受けながら、先生は心理療法家だなあと感じた。プロの顔を読み取っていた。こういうときは、先生に暗い感じだね、みたいに言われても、実際そうだったけれど、調子がいいと思う。ある意味で。(どんな意味か分からんが、どっかの部分は明るくなっている)