本題:若い女の尻を追い掛け回す僕(50歳)を皆は嫌いか?

平成29年9月11日



 朝の交通機関で思った。


 人のことを、あの人はあんなことをしてなんてひどい人だろう。ろくでなしに違いないと。

 この話には自分のことも被(かぶ)さってくる。僕は若い女のことが好きだとのたまった。若い女の尻を追い掛け回したいと。確かに本心だ。これを読んで人は、馬鹿な奴だ。俺とは違う。なんて変な人でしょう。気持ち悪い。とか思ったと思う。





 ここで分析を思いついた。

 人は他者のことは外部なので、いかようにも批判できる。馬鹿だ、ひどい、最低、あんな人。

 その批判される人は、内部のことなので、当事者でもあり、必然性の中を生きている。


 若い女の尻を追いかける僕は、性欲の虜(とりこ)になり、こんなことを書いた。最低なのはわかっている。でも、性欲をどう処理すればいいかわからず、若い女の尻を追いかける以外方法がなかった。代替法無しのやむを得ず、というところだった。そして、僕は心の中で、性を抑圧していて、ストレートに女に性が向かわないという欠点がある。若い時に女と付き合い、行為をたくさんするという経験の欠如もある。石鹸天国で4回くらいしか経験がない。(笑うか)

 この内面のゴチャゴチャが若い女のケツを追い掛け回すという心情になった。僕にとっては必然だった。他者にとっては見苦しく、馬鹿で、最低だろう。当人の内面は必然性で動いている。



 繰り返しになるが、そして、他者の行為は傍観者にとって、外部になっている。自分と切り離していかようにも料理が可能な状態だ。







 これらが捉える射程は、他者批判はあまり価値がない。自分と切り離した時点で価値は低い。価値を高めるとしたら、やはり、当人の視点を導入することを通して理解することだ。



 批判される側の人間にとって、当の批判材料は全部、内的必然性で出来上がっている。葛藤も矛盾も、自己否定的内容も含んでゴチャゴチャになって、槍玉(やりだま)の、ターゲットの行為になっている。批判される当人は、行為をやむを得ず行ったり、正当化したり、矛盾の露呈として行っているかもしれない。

 当人にとって、被・批判行為は、他者とのすり替え(あいつのせいでこんなことをした)であったりしても、内部の回路を使って・内的必然性にのっとって行った、当事者にとってその時点での正しい行為だと思う。この正しいは、倫理的、社会的、正当化という意味ではなく、内的に組みあがった当人のためのその時の行為だ。後日他者批判を受けることになるとしても。




 もっともらしい口調と単語で作ったので、それらしいけれど、そんなに格調高くしようとしたのではない。ただ、こういうことを交通機関で思いついて、ここでワープロに起こして打ち込んだだけです。




・ これを打ち込んでいる間、かけていたのはyoutubesonic youth の曲。この人たちのことをあまり知らないで好きだとか思っていたけれど、アルバムを通して聴いてみると、かなり反社会的、アンダーグラウンド、負のエネルギーに満ちている音楽だ。
こういう音楽は、社会的に正当な行為を行っている、その正当さの裏返しとしての、使われない反社会的なエネルギーの表出、代替として必要とされるものだと思う。僕にとってはそういう自分の内部の部分を使って聞いている。僕の全部が反社会的とはならない。
 ここを読んで、なんだと思われる方もいるでしょう。僕にはそのくらいしか踏み込めない。