24 Sat 「歩く」 /23抑圧始?/ボランティア(動物愛護団体)

24
eyes wide shut, stanley kubrick を買うことにした。カット版のVHSをレンタルしたことがあった。


Barry Lyndon を見終わった。女房の連れ子と主人公の決闘シーンは見た記憶がなかった。たぶん初めて。そこが印象深かった。連れ子の屈折した人生がどうだったかが気になった。これからの将来とか。この人に感情移入した。僕は完全にマザコンか。


 ロリータ(キューブリック)を見終わっていない。バリーリンドンは、2年くらいかかって見終わった。亀のような視聴者。ロリータは、母親役の女優の快演が非常に面白かった。あの人の演技の存在感は抜群だった。他の人は嘘くさく作りものっぽい。母親女優はその人がいるのを感じられて非常に面白かった。


 ロリータは、少女という所だけれど、だいぶ大人だ。僕には、白黒なのが残念だ。(マニアックな映画ファンではないですね)
 僕にとって、バリーリンドンは凡庸に思えた。この辺も映画ファンではないのかもしれない。主人公の人生に肩入れできないのが、僕にとってのこの映画との相性の欠如。マザコンゆえか。





 アイズワイドシャットに期待しているのは、助平と、制限を外していく過程なのか? 制限を取っ払っていくとき、不安定と危険が忍び込んでくる。その辺をどう処理するのか。いいことばかりではない。マイナスは大きく被さってくる。助平の制限が取れたとして自由が待っているかというと、それはあり得ないと思う。女は他者だし、女は人間だ。女と付き合うという制限を背負うことになる。女に規定されてしまう。女による規定を良しとするのか? 女に何なのか? 最終的にはどんなに親しくても他者だという所なのか? 付き合った経験がないので何とも言えない。




 助平は物凄く人間にとって重要だと思う。動物だから。助平が報われることは、男になることだ。男になって、女を手にし、報われて、どこを目指すのか。 僕は女による規定が欲しいわけではない。女と関わると、助平の自由はあるが、人間として男としての最大の制限を加えられる。もともと自由はあるのか。他者の中の生活に自由があると思うのが間違いか。



 自由は最初からなく、勘違いだけが増幅されたのが自由で、(prince black albumは楽しんでやっているように感じれる・制限も最大だったとろうが音楽という土俵の上では奔放だったのだろう)、与えられた中での裁量とやり繰りだけが許されているだけの気がする。出口はないし、入り口もない。降りるところもない。乗りっぱなしの、アクセルとブレーキの操作だけ。


 僕が欲しいのは何か。自由ではない。出口でもない。事実と見通しが欲しいのかも。自分も他者も捻じ曲げることのできない事実が厳然としてある。でも、それも他者と自分によってできている。社会の要請によっても。見通しは、地図さえあれば歩いていけるからどうしても必要だ。女は出口ではなく、自由でもない。制限しかもたらさない。制限を加え合わないとしたら、別居しかないと思う。何を書いているのかわからなくなってきた。


 見通しは、歩くためにぜひとも必要だ。どこを歩いていて、どこを目的地として進むのか。正しい道はなく、望む方向へ舵を切っていく。道にも規定される。それでも歩く。目的地を目指して。到着はできない。ただ目指すのみ。目的地は振り出しに戻るだったりする。残酷だ。



 僕が望むのは、必要な情報と、仮定する地図と、仮定する目的地。仮定する歩くライン。歩くラインは、間違うことも多く、ぶつかったり、逆向きのスタートラインに進んでしまうこともある。歩こうとしてきたし、これからも歩こうとすると思う。歩いている足の下だけが照らされ、先も後ろも消えたり見えなかったりする。ただ、足元を照らし、歩幅を保って、身体を歩く態勢にして手足をバタバタさせる。


 それだけが許されていること。後は霧に隠れてなにもないし、どこという目的地もない。ただただ、歩こうと身体を動かす。








23 Friday

 リコーダーを1時間半くらい吹いた。休みなしで。はじめての長さだった。

 気づいたことは、リコーダーは難しいものではなく、管に息を吹き込んで、穴っぽこを押える道具だという、そのままのこと。

 自分のなかではだいぶ上達した。もうすぐレッスンの新しい所に進めそう。今日は2週間ぶりくらいで吹いた。最初かなりもたついた。




☆本題:

 
 抑圧している本体の存在を作業の最初の頃感じていた。呼吸と共にあろうと。僕はやはり逃げているのではないかと思いついた。抑圧と向き合うのから逃げている。問題と向き合うのから逃げていると。


 この感覚が本当なら、時限爆弾は動きだした。僕の抑圧が終わるカウントダウン。逃げていると感じることがスタートボタンになっているからだ。30年前の抑圧の時、そういう状態だった。だから本当なら動き始めたといっていい。思い過ごしなら、まだ始まるのは先になる。


 何が途中経過で飛び出すかわからない、お楽しみ時間が始まり、追い詰め、追い詰められ、核心に近づいていくという、流れになれるのか、まだよくわからない。この辺は慎重にしないと、僕のいつものバカ騒ぎになってしまう。




・ そういえば、昨日、岩合光昭(?)の猫歩き(?)という番組か? で、

 猫を撫でる、撫で方をやっていて、「あなたが大好きだよ」とやるらしい。僕の予想は間違っていなかった。ちょっと、番組を覗いた。




2017年6月21日(水)
 

 動物愛護団体へ出かけた。今日はうんちの世話ではなく、猫トイレトレイの拭き掃除だった。アルコールを吹きかけて、トイレットペーパーで拭く。


 交流スペースには新入りの子猫・キティが4匹くらいいた。



・はじめての猫との暮らし方、猫びより編集部・編、日東書院、平成26年(アマゾンで258円で購入。1+257円)



 この本のp82- の ニャンとも気持ちいいマッサージ を行きの交通機関で読んでおいた。猫との交流に使えるハンドタッチの方法が写真と文章で書かれている。わかりやすいかどうかはわからないけれど、とりあえず使えた。


 掃除をしながら、猫に触ったけれど、どうも相手の気持ちが鈍い。すり寄ってこない。触ったら逃げて行った。というような対応を全般的に猫は取った。少なくとも気持ちよいとは思ってもらえなかった。でも、成人猫にもキティにも触ってどんなものか試すことが初めてできた。


 最後はモップがけをやらせてもらった。四角い箱に水を入れ、足で踏んで引っ張って水を切る道具。床が木で塗料を塗ってあるのでモップがけだった。掃除機をかけた人の後に行った。窓ふき掃除の人もいて3人で今日は掃除を行った。


 モップがけは、水切り道具を使ってやったのは初めて、学校の雑巾がけ以外やったことがなかったので新鮮だった。映画によく出て来る、フルメタルジャケットの入隊訓練の場面にも出て来る行為。映画で見るとやりたくなくなるけれど、実際にやってみるとなかなかいいもんだ。僕は嫌いではなかった。地味な掃除はもともと性に合っているかもしれない。床面積が狭いので重労働ではないし。モップに水を浸けて、拭いて、洗って水を切ってまた拭いての繰り返し。椅子とかを動かしてよけながら拭いていく。任された感じがしてうれしかった。僕って単純だ。



☆☆ 家に帰ってきて、振り返ってみて、猫の受けが悪かったという事実があった。モップがけを終えて休んでいたら、窓越しに交流スペースにいた一緒に掃除した女性が猫をかわいがりながら椅子に座っていた。この方のようになるまでには遠い道のりで、すぐには無理そうだと感じた。

 僕は猫に触るとき、こちらが癒されよう、もらおうという、ある意味猫にとって不気味な触り方をしていたなと思った。機械のように血の通わない触り方。戦略として、猫に触るときは、愛をあげる、愛しているよ、好きだよという気持ちで触る必要があるのかなと。君のこと大事だよという気持ちを指に込める。そういうのが必要かなと思った。戦略としてそう思った。愛されたことのない僕は、愛をもらうというより、愛を与えることで愛を受け取ることになるのかなと思う。猫は気持ちの良くないことには敏感だ。気ままに生きているし。今度の課題にしようと思う。




 ボランティア女性は、性的に意識した。変に意識したので、性のある女性としてみようと切りかえて、自分の立ち位置を変更した。相手の女性が不気味がった、気持ち悪かったろう。僕のやることだから、ある程度迷惑をかける。この辺も課題。



・prince, black albumは、funkyでblack musicという佇(たたず)まいです。かなりエネルギーを注ぎ込み、真剣に作ったと思う。僕は、lovesexyのほうが好きだ。コントラヴァシーとか。スペルが書けん。



 朝が早かったので疲れたけれど、楽しかった。


・ そういえば、この前狙われたカラスのところに行き、あえて誘った。カラスはまたもや頭上にやって来たけれど、今度は頭の上に手を出した。やられっぱなしではなかったけれど、しつこく追っかけて飛来してきた。この街では、カラスとのやり取りも含めてのボランティアになっている。カラス君たちから隠れる気はないよ。また会おう、カラス君たち。



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アマゾンレビューで教えてもらい、たまに聞く大事なCD。いま、安いよ。