追記 /時計じかけのオレンジ 悪人として出発

追記

 幼稚園の時、母に抑圧したのは、母を したいという気持ち、悪人の気持ちだったのかもしれない。
そう思うと、胸のあたりに抑圧が姿を現しそうな気がする。霧が雲となり、はっきりと雨雲の形となるように(科学的でない、胡散臭い表現)焦点を合わせ、抑圧として立ち現れる気がする。僕は幼稚園の頃からろくでなかったのだろうが、幼すぎて、自分の気持ちをごまかしたのかもしれない。
そうなったからといって、何も変わらない。ただ、自分の本心に気づき、そういう人間として登場し、自分の気持ち・本音を立場上表明するだけだ。行為が伴うわけではない。
僕は悪人なのだろう。根っからの悪人かもしれない。そうなのだろう。悪人なのだ。

寝ようとして気がついた。




2017年6月10日(土)


時計じかけのオレンジ a clockwork orange キューブリック、終わりの方まで見てきた。



 3度目に見て(2度目は17年位前・レンタルビデオ・モザイクあった、最初はジャブ70ホールのレイトショーだったのか?・封切に近い時期・ちょっと後か? に見たのだろうと思う)、
僕は悪人だという認識に切り替える必要を迫られている気がした。


 僕はブログでも善人ぶって書いてきたが、アレックスの罪悪の数々と反省のなさには自分を悪人だと書き換えないといけないだろうと映画に言われている気がした。それは、アレックスと僕が同じ性根の人間だと思えるから。





 アレックスは、映画最初の40分くらいの間にひどいことを数々行う。そして捕えられ、洗脳され、因果応報の罰を受けることになる。

 自分の犯したことをことごとく責任を負わされる後半の場面は、ここを書きたいからかと思わせるように圧巻だった。僕が調子の悪い時に見る夢のような調子の場面がずっと続く。悪行の責任を取らされていく。僕は見ていて、気分が重く、胸も苦しく、嫌な気分になった。夢での氏ぬ場面と似ているから。

僕は現実世界で悪いことをたくさんして迷惑もかけてきた。世間の人に嫌な思いもさせてきた。だから、現在の自分の攻め込まれる危険と窮地はアレックスの危機の場面と同じで、僕の罪業の責任と言えなくもない。僕は現在怖い。人間が怖い。不利だから攻め込まれる危険を負っている。



 自分のやってきたことの責任を負うという意味では、悪人と自分を認識し直して、悪人としてやっていく方が正面切っていると思う。善人とするやり方はごまかしていると思える。責任逃れでもある。





 僕の止めている場面から先では、アレックスの洗脳は効いていなかったとなったと思った。転向していない。改心していない場面があったはず。アレックスはまた罪を犯し死刑になるという場面が続くというのが僕の想像する所。その場面はないけれど僕が書くとしたら入れたい場面。死んで全うするしかない。アレックスはそういう男だと思う。でなければあいつは統一性がない。



・ 今日は織り教室に出かけたけれど、不評だった。当たり前と言えばそういうことになります。