5 Mon /3/生と死の思想 森三樹三郎 ・ 汎ペニス作戦

5 Mon

 マインドフルネスを習える適当な先生が札幌にいないので、今のカウンセラーの先生にお願いしたいと思った。頭を下げて、よろしくお願いします、とやってみたい。
 ヨガの先生には習いたくない。(偏屈・意固地なポリシー)


3 Sat

追記


生と死の思想 森三樹三郎 は日本の古本屋でも買えるよん。数は少ないです。

www.kosho.or.jp




2 Fri

・生と死の思想 森三樹三郎 人文書院 1990

目次:

日本人の人生観、
老年と死、
「足るを知る」ということ、
迷信と生活、
死の象徴としての阿弥陀仏
運命と摂理(中国における弁神論の展開)、
天命と人生(中国思想における超越と内在)、
仙人の道、
編者あとがき




○生と死の思想 森三樹三郎 人文書院 1990

死の象徴としての阿弥陀仏

p147~149

引用:



 「絶対無限者」を「死」とよぶ場合には、語弊の一番大きなものは、普通常識では死は生に対するものであり、相対的なものに過ぎないということであります。そして常識では、死は「生の否定」「生の断絶」であり、「薄暗く、悲しく、恐るべき世界」として捉えられております。これは、我々が生という局限された立場に立つ以上、真に己むを得ないことであ

(p148)
ります。


 死の象徴としての阿弥陀仏

 生という立場から見た死は、あくまでも対立者であり、生の恐るべき破壊者であります。~

 しかし、よく考えてみれば、「生は瞬間のもの」であり、「死は永遠のもの」であります。

(p149)
~ 
 そのように零に等しい「有限の生の世界」に対して、「無限の死の世界」を対立させることは、もともと大きな誤りを犯していることになります。
 
 我々人間は、無限の死の世界から生まれてきて、ほんの瞬間の生を経験し、再び無限の世界に帰って行くのであります。この無限の世界を生の否定とは考えないで、むしろ「生を包みこむ」として捉えるのが浄土教ではないかと思います。

 その意味で、浄土教は死の肯定の宗教であり、浄土は死の世界、阿弥陀仏は死そのものの象徴と見ることが出来ると思うのであります。

(p150)


引用者:kurage0147130:

 とてもおもしろかったところを抜粋しました。死から生まれて死に帰るという、ゼロから生を体験しゼロへ戻るという、整腸作用のような、とてもすっきりする見方だと思った。今のところこれを採用して生活したいと思った。

 死を生の対立として描く見方は、硬直し柔軟性がなく執着的だから、このような見方は自分へのこだわりを捨てさせるというか取らなくさせるいい見方だと思った。

 死ぬというのは土に還っていくような、大きな流れのなかのひとつの体験だとは言えないか。死を脅えるような硬直した見方は、僕の見方は嫌だな。大いに読んで影響を受けました。




kurage0147130:

「汎ペニス作戦」

 昨日のリコーダーからやっていたけれど、リコーダーをペニスと見たりする見方。よくギタリストがやること。

 僕は性を抑圧しているので、いままで、僕自身がペニスになろうとしていた。

 それと同じだけれど方向を変えて、世界はペニスで満ちている。抑圧者の僕は、世界のペニス、無数の世界のペニスに触れること、世界のたくさん存在するペニス=僕が抑圧しているペニスだから世界に満ちているとすると抑圧の解放になるかと思った、そいう方向にすると前進するかと思った。

 という、汎ペニス作戦で行こうと思った。作業所でやって、織り機の杼(ひ)をペニスに見立て、経糸をヴァギナとみていたらしく、厭らしい手つきになった。不興を買ったかもしれないが、今日はしょうがなかった。とりあえずやってみるしかない。