25 /24ボランティア猫/捕捉


25 Thu

 昨日は調子が悪いみたいだったけれど(ボランティア以外何もしなかった)、朝から猫うんちの世話は強烈だった。休みという幻想も消えた。

 今日になって振り返ると、猫の下の世話ができると言うことは、猫が飼えると言うことだ。僕がそこに通って身に付ければ、猫を飼う資格が得られることになる。

ボランティアに行くことは、猫が飼えることができるという力を得ることになる。でも、それ以上でも以下でもない。ただそれだけ。

 今日は草取りをした。(昨日はしなかった) 草取りができる。庭の管理の草取りができる、と言える。


 こういう小さいことの積み重ねが自信になるのかなあ。 



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 最近、少しずつ森田正馬を読んでいる。なりきる、とかいうもの。


寒いときは寒いとかじかみ、病気になれば熱を出しうんうんうなる。寒さから逃げようとかそらそうではなく、寒いなあと、寒さになり切る。熱を出せば死ぬかではなく、苦しいなあと身悶えする。

そういうなりきりの大事さ、ずらすのではなく、そらすのでもなく、苦しいままにいる。そういうやり方を読んでいるところ。、


 僕のやり方と違う。僕はずらそうとしたり、すぐよくなろうとする。そうではなく、保持してそのものになり切って、そのままでいる。小細工を施そうとしない。心の持ち方の勉強か? 読んでいて、心の使い方が書いてあり、心地良いから読んでいるのだろうと思う。

 神経症(強迫症?)の人のためだけのものとは思っていない。僕にも有効だと思っているので。



24 Wed


 動物愛護団体のボランティアの初日に出かけました。



 朝9:00集合なので、5:35分に起きました。遠い所に現地はあります。



 猫の世話なのですが、任されて期待されていたのは、うんちなどの排泄の後始末です。

 ☆ 若い猫3匹くらいと、でっかい古株猫一匹・こいつは檻の中から出ないし動かなかった。これらが僕が担当した猫たちでした。若い猫は活発だった。




 最初からうんちを集めることから始まりました。猫が新入りの僕を気に入らないらしく、ぶつかってきます。コイツ縄張り主張かあ。とおもいました。


 猫のおしっこの砂の処理もやりました。猫はおしっこをするので砂を敷いてやる必要があるらしかった。それを捨てて、消毒スプレーをして、トイレットペーパーで拭き取って捨てるという作業です。

 床をモップみたいな、4隅を押して止める紙で拭くモップで拭いて、コロコロで敷物の喧嘩した猫の毛を取り除き、ゴミを捨てて終わりです。自動走行ロボット掃除機も使っていました。1時間くらいの作業でした。




 僕にとってはフローリングに膝をついて作業するのは結構きつかったです。結構大変だった。今日は触れ合いとかなんとかはなかった。期待していたわけではないので織り込み済みでした。その場で手を洗わせてくれなかったので、公衆トイレで洗いました。




 うんち処理班としてのボランティアを完了してきました。今度行くときは覚悟が要ります。本当のボランティア作業だったので、甘い夢の入り込む余地がなかったからです。





 猫を飼うということがどういうことかハッキリわかりました。排泄の世話を毎日してやるのがずっと続くと言うこと。本当に好きでないと務まらない。メダカより大変な作業です。まあ、猫一匹ならそれほどでもないのかな?
 
 続くかどうかわからないけれど初日は終わった。猫のチッコイうんちもよく見て、スコップで集めてきたし、猫くんたちが元気にしているのも見た。作業している間、近寄ってきて、僕の手を触ろうとしている猫もいた。帰るころには、僕など知ったことではないというように興味を失ったようだった。やつらは猫だし、一匹狼(猫)だし、どんな環境でもやっていくだろう。


 スタッフ同士の会話を小耳にはさんで聞いていたら、膀胱の調子が悪くて食事をしない猫とか、心無い飼い主の飼育放棄のことみたいだった。現実に動物愛護団体が活動するというのは、猫の世話と、飼い主と、殺処分の役所といろいろやりあっていく大変さがあるようだった。想像はついていたけれど、それを担ってやっている人たちが現実に活動していた。それのちょこっとを僕も齧らせてもらった。



・ 家に帰ってきてから、目立ったことは何もしなかった。明日から作業だ。母が餃子を作り、僕は手を切っているという理由で参加せずアシストだけした。家の餃子はうまかった。母の餃子というべきか。








5/23 Tue



 朝早起き(5:35分起床)して、草取りをして思ったことは、できるという思いは大事だというもの。


 今日で草取り連続3日目になった。身体も慣れてきた。僕は草取りをしていて、草取りしかできない、庭作りとかではないと考える。でも、今日感じた、草取りができるという思いは大事ではないのか。主治医にも、これしかできないと思うのと、これだけできると思うのでは違うみたいに言われた。カウンセラーの先生にもできると思うことの大事さを説かれたことがあった気がする(忘れてしまった)。自信を持ってよいようなことはよく言われていると思う。


 草取り技術は70%くらいだと思っているけれど(割れた爪を引っ張って血を出して、治りかけ、それで力が指に入らない左手)(草を両手で取ったとしても、改善の余地がまだたくさんありそうだと思っている)、草取りができるという気持ちは自信を持って主張していい内容だと思う。


このできるという思いを中核に据えて物を見ていいのではないのか。僕は、できない、これしかできない、を中核に据えて物を見ている。これ良くないよね。これこれのことができると、絞り込んでいいと思うけれど、その絞り込んだ内容は何%でできると主張していいし、自信を持っていい。






○13歳からの頭がよくなるコツ大全、 小野田博一、 php、 2014

 Ⅱ部 作文のコツ を図書館で読んできた。まだ途中。


 思ったのは、僕は自分でわかっていることを周りもわかっているという前提で書いていて、そして主題の主張を周りの部分で支えて主題を描ききることをしていない。

 説明が足りないのに、周りにわかっているはずだと、主張してないことを暗黙の理解として読む人に押しつけて1人満足している、ひどい書き手であるらしいということ。結論を書けば理解してくれると思い込んでいて、説明を怠っている。





それで2001年宇宙の旅 捕捉してみました。


○ 進化は、黒いドアが磁力を出して促すらしい(人間の祖先に対して、そして月へ飛んだ人たちに対して、最後には木星に向かった主人公に対して)。


 僕は、人間の進化を説明するのにドアに担わせたのはSF的で面白いと思った。はっきりしていて、即物的で、謎をドアに込めることができて、このドラマチックな進化という得体のしれない人間の理解を超えていることに、SF的に回答を与えて謎めいてぼやかすことができた。宇宙人もほのめかしているし。


 正直に言うとちょっと嘘くさくないか、とも思う。そんな単純か? 宇宙人? 黒いドアに謎的なものを担わせる無理がないか? そんなことも思う。


 人間の祖先の猿を、同じ仲間の違う部族・黒ドアの進化エネルギーを受けた道具を使い始めた進化猿が殺すという、ショッキングな暴力で進化を描き、道具を使うことで優位を得たとする説明も、おもしろいけれど嘘くささを感じる。


 ここには道具を使う部族猿に力・パワーを得たとして力関係の優越を与えている。確かに競争するから力の強いものが優位に立つというシンプルなものだ。権力を道具猿に与えている。でも新聞で読んだけれど、ゴリラは知的に劣ったゴリラの子どもの面倒を見ると書いてあったぞ。本当に力が強いことや、道具を使うことが勝利に結びついていいのか。もっと福祉の面がゴリラにもありそうだぞ。弱い者にも渡りをつける集団的な横のつながりはなかったのか? 映画では水を巡っての利権争いだった。仲よく譲り合う側面は人間の祖先の猿にもあってもよさそうだが。納得できないのは暴力を解決力に描いていることだ。暴力万歳には納得できない。





○ 命の循環は、猿の進化、最後の主人公の老化の場面。

 猿は道具を使う強い猿が生き残っていき、その種族の子どもたちが僕たちになるという命の循環がある。最後の主人公も黒いドアに向かって指を指して文字を書く?(そんな仕草なかったっけ?)、とにかく指を黒ドアに向けていた。あの主人公の子どもが胎児になって進化して次の人類になるという仄(ほの)めかしだと理解した。


 命が次の命にバトンタッチし続ける、命の循環がある。この不思議さも言葉で説明できることの枠に収まるものだとは思えない。その部分を映像で描くとああなったのかもしれない。命というエネルギーは、ことばでは描けないと思う。そこを神秘的に映像化したのだろうと思う。




 話は違うが、個人の命は関係者には大事でも、命の値段として見た場合、集団の中の部品としての値しかつかないと思っている。蟻を一匹殺してもたいして変化はないと思う考え方。でも、僕はそのアリの命と僕の命は等価だと思っている。僕は蟻を殺すが命の重みは優越を与えたくない。






○ 死は、宇宙船内のハルに殺された飛行士、そして主人公の死。


 人間がコンピューターに殺されるという、ショッキングさ。ここも暴力が描かれる。コンピューターが力を発揮する。権力を持っている。権力が強いものが弱いものをいたぶるという構図。弱点はあったけれど(マニュアルで主人公は宇宙船に戻ることができた)、コンピューターに対して力を持たせたあの描き方は古くないか? なぜ共存できない。男の論理ではないのか? すぐ権力と力を持ち出す。なぜハルは傲慢になるのだ。常に横につながりを持たせる描き方もあってもいいはずだ。マッチョ的でないのか。





☆ 宇宙船が、死と権力が渦巻く祭祀の場所に見えてきた。宗教のように思える。あの無機質で簡素化された内装。白で統一されていた。暴力が振るわれる船内。密閉された中での殺人。ひどく創造的ではないように見えてきた。エネルギーが満ちていない。死の臭い。

 キューブリックがマッチョな人だったのか。面白い映画だけれど、主題は古臭い気がしてくる。



○ 道近美のスビアウレ兄弟の絵の顔の模写ですが、僕は、外国の人の顔を描いてはいますが、この顔の模写に命の重さを感じています。人生の重さを感じる。生きてきた、60年とかの重みがあるように思う。辛いこと、苦しいこと、楽しいこと、悲しいこと、このような背負ってきたひとの人生を感じる。

 自分の歩んできた、平坦ではない重さ、をこの絵の主人公たちの顔にも感じる。僕は、自分を投影させて絵の主人公の顔に共感を重ねたのかもしれない。邪道かもしれないが、共感した気分になったことは確かだ。

 絵の中に見られる他者の人生を、他者の人生として見たのではなかったのかもしれない。そういう意味で、邪道かもしれない。