14 Sun /13/12/11/ガンボ

14 Sun

 作業所では、昨日の織り教室の自分が嫌な奴だったので、他にいいやり方はないかを思った。カウンセリングで赤黒いものがあったので、これを感じることが、意識し続けることが脱出ではないかと思った。
 この赤黒い抑圧は、少しでも意識できたら、後は逃げを許さず、常に向き合い続けないとこちらが滅びる危険なパイだとわかっている。

 抑圧30年前、20歳の時、僕は出したけれど、あの時もずらすことは許されなかった。こうなった以上引き返すことも、横へ行くこともできずひたすら進むだけしかない、あの時を思って浮かんだ。




・弱さの思想

 最後の章は非常に面白い、読んでいて充実している。楽しい。少し賢くなったと錯覚する。バカな自分が見える。周りをバカに感じるのは、自分から逃げているからだ。僕は逃げ出すのが得意で、苦しくなると逃げようとする。

 統合失調の抑圧で負けているし、作業所へ作業に行くと言うことでも負けている。僕は何重にも負けを背負って、担って、まみれている。負けの重荷に打ちひしがれる。負ける以外にやりようがない。本を読んで出口があるというより、どんな負けをしているか、自分の負けの状態をわかるために読んでいるようなものだ。(他の本たちのことも入ってのこと)

 赤黒い抑圧。男・性の解離(?かいり?:正しい使い方か?僕はアホだ)。だから、赤黒いのは性と関係あると言えると思っている。単純に関係性をくっつけた。



・ この本、弱さの思想、負けについても書いてある。それを読んでの上の内容になっている。通貨についても、単一の通貨だから統制できる。地域の通貨とかを含め、多様性(負けている / 単一、中央集中が勝者)があると、おもしろい、ローカリゼーションの見方が必要だと。グローバリゼーションではなく。

 物語も、地方出身者が中央に出て出世する、という神話が成り立たなくなっている。若者は地方を志向し、山に自分の居場所を見つけようとしたりする方向になりつつある。本にあることをずっとここは書いてきたが、神話だと絶望するかない。勝者は3位くらいまでで、その他は皆敗者になるので。


 この最後の章は面白く、頭がよくなった気分に浸れる、絶好の優越と言いたいところだけれど、さっきも書いたように負けを意識させられる。絶対負けの自分を愛するしかない、寂しい自分が見えてくる。負けを抱きしめる、たそがれを抱きしめる、が本の言葉だったが。


 出口のない負けの自分をどうするか、突破できないまでも、負けながら中和するというか、乗り越える方法はないかと、本でも言いたくて対談しているのだと思う。(僕の理解は違っているか?)




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太極拳が教えてくれた人生の宝物 フランソワ・デュボワ

終章 これからの旅 p221~

 この本が、山にこもって、降りてから悟ったというか見えてきたという内容らしいので、その悟りから読もうとした。読み終わった。(終章だけ)

 非常に率直でオープンで明朗な文章だった。そして充実した時間だった。あっという間に読み切った。(終章だけ)



太極拳に学ぶ 身体操作の知恵 笠尾楊柳 

 こちらも読みだした。ちょっとずつ学びたい。まだ始まったばかりで何のことやら。





○新・作庭記 丸山健二


は、自分は文学をやっているが周りは違うという意見のように理解した。自分は皆とは違うと。その論の持って行き方には納得できない。

 自分の文章も大したことはないとは書けないらしい。作家だからか。そこを守って周りを否定するから変な意見に見えた。自分を守るなら周りは否定しない方がいいと、僕は感じた。作家先生なので僕の戯け(たわけ)は通らないだろうが。





引用:p24・25:モネについて語っている箇所:


~草木のひとつひとつが命を持って、様々な悪条件と闘いながら懸命に生きているということを~


~我々人間もまた、いつ踏みしだかれるかわかったものではない、逃げ場などどこにも見つけられない、ともあれ生きるしかない、極めて危うい存在であるという原点を忘れないことが、本物の美にめぐり合える基本中の基本なのだ。




引用者:kurage0147130:
「素晴らしい文章の箇所。ぜひとも引用したく載っけた。」




○弱さの思想
  第3章 弱さの思想を育てよう

に入ってから少しおもしろくなりだした。ゴリラは強いが闘わないらしい。戦わないために強くて、胸をバンバン叩くらしい。

13 Sat
 
 今日の織り教室は、嫌な奴として存在しているらしかった。自分でもそういう存在なのを感じた。周りの態度も冷たかったし、僕もあたたかい気持ちになれなかった。




 個として存在しているようになってきているのを、歩いている感覚で感じた。




 このブログの特徴が、ダラダラと冴えない、鬱写した日常を描くという性格なのでこれからどうなのだろうという不安をちょっと感じる。

 今までは良くなるという明確な目標があったが、実際によくなってきて、でも日常は鬱々としてスパッといかない煩悶を抱えるというダラダラした内容で、どこへ向かっていくのか明確ではない。モチベーションがはっきりしない。目標や到達点が定まらない。



不明朗なブログという特徴を持ちつつある。



僕自身がいやな奴として存在しているわけだし。好きで嫌な奴をやっているわけではないが、なぜかそういう役回りを今日の織り教室では担(にな)っていた。



・明日は母の日なので、ジャワカレー中辛で作った。










12 Fri

 今日の作業所は、相変わらずnuno-zoriの達人の無視は続くが、ちょっと昨日から感触違ってきた。

 テーラーSGも否定っぽい態度でいるが、彼らの無視は底意地の悪いものではない。悪意があるなら切り捨てればいいけれど、彼らは僕がどう出るか読んでいる。こちらの動向を窺いながらの無視なのだ。完全無視の否定とも違う。

 僕がどう出るか見られている。僕はこれらの無視をどう踏むか任されているともいえる。彼らを否定するのは回答としては誤りだ。
 いい機会、成長する試練だと捉えている。ちょっと苦しく、かなりしんどい時もある。がしかし、森田正馬の事実本位だと、僕が作業所に通えていることで、仕事をできていることで僕は報われている。友達づくりを志向しているわけではない。欲しいならこちらからコンタクトを取ればいい。今は無理だが。
 作業できているのだから、友達作りの部分はカットしてもいい。この辺は昨日も書いた。




☆ そして今日最大の収穫は、自分自身への執着もカットしていい。どういうことかと。
 
 僕は自分の動向とか、どうしたいとか、こう対応してほしいとか。友達が向こうからきてほしいとか。女ができればいいとか。自分への自分自身への執着、期待が多すぎる。この変なこだわりを、このnuno-zoriの達人の無視による機会をもってカットしていいい。いい機会ととらえる方法がある。自分への過大な期待は捨てた方がいい。もっと絞り込んでいい。事実本位の考え方はこれを実現してくれる。

 
 できれば作業も、もう少し上達を目指せればいいが。どうもダラダラと続く作業にしてしまっている。上達するためにどうしよう、こうしようと試行錯誤するように作戦を練られたらいいのだが。この、のんべんだらりんの状態はあまりよくない。作業に創意工夫をたくさん持ちこんでもいい。できると思うんだ。考えない、やらないが、ダラダラを生んでいる、と思う。


 僕のブログを読んでいて思うと思うのですが、自分への執着が核となってきたけれど、それを捨てて、自分をも捨てるような、変な執着を脱げられればいいとは思う。難しいが。





・めだか7匹追加した。ホームセンターで購入。これで腹を膨らませたメスの産卵が期待できると思うがどうか。病気のように腹を膨らませていたので改善してほしい。小さい水槽が、11匹のメダカで賑(にぎ)やかになった。



 森田療法は少しずつでいいから読んでいきたいな。僕にはすごくいいと思うんだ。





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追記:


○現代に生きる森田正馬のことば① 悩みには意味がある

p89  どうしなければならぬという主義がいけない

ここを読んで、僕のキーワードというやり方がそもそも間違っているという指摘を受けた。

ペニスがくっ付いた男という 頭の片隅に置いてもいいけれど、とらわれてはいけないらしい。僕は穴の中に落ちている状態みたいだ。こういうやり方は臨機応変に欠け、はからいという点から見ても、苦しいときは苦しくてよく、違うように感じようとするのは間違いらしい。

 このあたりを読んで、改善する方向にしていきたい。



2017年5月11日(木)


 アクセス・読んでいただきありがとうございます。


 今日も作業所は、nuno-zoriの達人は無視だった。ちょっとつらく感じた時もあったけれど、○自分で心を手当てする方法 の第3者のカメラで見る、祈る(こちらはあまり反応がよくなかった)で状況を捉え直し、乗り切った。


 本のやり方で思ったのは、nuno-zoriの達人が無視しているというのは小さいことだ。この作業所に皆が集い作業するという奇蹟に感謝しなけれならない。すごいことだと。このすごいことに僕は毎日来れているのだから、とてもいいことだ。



 そして森田療法の事実本位(⇔気分本位)の考え方。前にも書いたけれど、作業所に来れていると言うことだけで満足していい。目的を達した。友達はなくてもいい。それは諦めてもいい。皆に好かれなくてもいい。そこはカットしてもいい。
僕は作業を上達して、少しでも上手くなれば目的は達している。事実本位を満たしている。この考え方は、あれもこれもと欲張るのを防ぎ、自分を際限なく認められたいというのをカットできる利点があると思う。今日も作業所に行くことができた。事実本位で合格している。





・ペニスがくっ付いている男、

このキーワードが今日のお題だった。これで行った。ペニスをくっつけていると、世間の風当たりはだいぶ少なくなった気がする。まだいろいろ風は吹いてくるけれど、だいぶ楽に過ごした。自分の持ち物に凸がなれば、抑圧も終わるのかもしれない。自分の持ち物になるように、間を挟みながら意識を集中させる時期を持とうとした。




○13歳からの頭がよくなるコツ大全

 の暗記を図書館で読んでいます。試していませんが読んでいてすごくいいです。記憶力が悪いという言い訳はしないでいきたいです。





○弱さの思想

 は理想の学校の話とか出た。実際に日本にあるらしいが、今はあまり興味がなくなった。うらやましいが、普通学校でもいいな、もう終わったが(歳をとり過ぎた)。話題で出た、学校批判も面白くなかった。軍隊と学校が同じだ、みたいな話も新しいとは思えなかった。また面白い話題も出て来るでしょう。








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 アクセスを見ています。

 カウンセリングの先生にも言われましたが、女服を着ていると言ったら、ゲイなのですかと聞かれた。
 ゲイではありません。と答えた。何故こんなことを書くかというと、ゲイとというとアクセスが落ちるのかと思い、こんなことを書いている。僕にとって性別は、自分の心とリンクするものだ。心は女が欲しいを志向する。でも、男という確証はない。性を抑圧しているから。

 なんか面倒くさくなってきた。ゲイだと思ってアクセスが落ちたのならそれでもいい。誰も読まなくなっても僕は続ける。僕は僕を維持するために書く。

女服に興味はある。それが僕だ。女服も着る。着たいからだ。


嫌われようと自分以外ではありえない。以下でも以上でもない。

僕はアクセスを気にする。


でも、そのために僕は存在していない。一番優先するのは、性別うんぬんより、心に忠実かどうかだ。僕はやりたいようにやりたい。女服を着たいから買った。性別うんぬんではなく、気持ちの持ち方だ。俺は、縮こまっているけれど、いつまでも縮こまっていたいとは思わない。世間の尺度は大嫌いだ。できる範囲ではやりたいようにやりたい。それが望みだ。


スカートも履いたことがある。履きたかったからだ。スースーしたぞ。世間の風当たりは強かった。


今回もそれか。嫌われても俺は俺だ。誰も読まなくなったら、毎日マス野郎としてやっていくしかない。寂しいけれど。ここはトーンダウンしておこう。


2017年5月10日(水)



・メダカの水槽を掃除した。

・土を少し掘り起こして、アジサイの茎を切って(アジサイは株の外側の茎が倒れてそこで根を出す。だから外側の茎は切らないと株が大きくなっていく。と理解している)大きくならないように予防した。ミミズ一匹しか見なかった。楽しくないなと思いながら行った。


・カウンセリング:

 先生の咳から始まった。待合所で、先生の咳が聞こえてきた。挨拶して、カウンセリングが始まって、経過のワープロ用紙を見てもらった。おちんちんの話とか書いていた。身体の抑圧に治療で触れて行って、赤黒のソフトボールくらいのものがあるという確認になった。会話を試みたけれど反応せず。打ち切りへ。


 その後の先生とのフリートークで、僕のオチンチン話には、凸に対する乖離があるという話しになった。先生はそうは思っていなかったみたい。僕の凸は、自分のものという確証がなく、宙に浮いている、自分とも親和性がない。

先生はこのフリートークまで凸を自慢か何かと思っていたらしかった。ちょっと齟齬(そご)があった。


 父の話になって、僕から見て、父は僕に対して凸を見せびらかして優位を示したが、実際は僕と同じではないかと話した。父は助平なシーンになるとテレビを回す。興味はあるけれどオープンではない。そういう気持ちを認めていないらしい。それで僕から見て、凸に対して僕と同じではないかと話した。


 先生は、凸と会話する、どうだいみたいに大事に扱うのが必要ではないかと仰った。また、僕の良くしようとする姿勢はいいね、と話された。ここはリップサービスかなと思ったけれど、確かに長所として認めていい。


 そして先生自身が、両手が自分の手ではないように感じられる時間が訪れるらしい。頻繁なのかどうかわからないけれど、それで手と会話したりさすったりしているらしい。この話は自分の欠点ばかり話していたので親近感を持った。


 目立った展開はなかったけれど、凸とのつきあいはどうなるのだろうと思った。





・終わって食事に行った。前から行きたかった、



DIXIE ROUX アメリカ南部料理の店




に出かけけた。


ガンボ、サラダコーヒー付き


を頼んだ。


 昔の基礎英語でさんざんガンボを聞いたけれど、食べたことがないので想像できなかった。雪辱を果たした。スパイシーなカレーのようなものだと思った。魚介類がけっこうあって満足した。真ん中に白米があって、周りにスープ状のガンボが盛ってあった。味も好みだった。今度は、豆料理の、何とかを食べたい。

 店やでコーヒーを飲んだのは、25年ぶりくらいだ。(寂しい生活を送ってきました)

 おいしい食事、御馳走様でした。



 明日から過酷だったとしても、思い出があるから頑張れると言えるようでいたい。(食事体験のこと)
 食事後、凸の抑圧、過酷になりそうな予感がした。不安材料。カウンセリング、1か月後に予約を入れた。




・動物団体:

 メールでのやり取りで、僕の不作法からか、あまりウェルカムではなかった。
 登録していただきました。日にちも決まりました。24日スタートです。

 何も始まっていないので、何とも言えない。遠いのと、男で、50歳、障がい者、というのでからか、僕だからか、不審がられたように感じられた。実績作りをしないといけない。できるだけのことはしたい。過酷なのかなとは感じた。






○新・作庭記 丸山健二文藝春秋、2009(中古で時間をかけて、だいぶ前に購入、今日から読みだした)


 最初読んでいて、歯に衣着せぬ言い方に、笑って4ページ読んだ。そのうちずっと続く。これは違うなと思いだした。この人の本は、図書館で5冊くらい読んでいる。親和を持っている。p22まで読んでの感想は、喧嘩だと思った。殴り合いの素手の喧嘩を吹っかけている。そういう印象を持った。僕はこの人の書き方好きだから手放さないけれど、中古に売りとばした人は嫌いだったのかもしれない。


 かなり率直に、開けっぴろげに、言いたい放題、書いている。気持ちはいい。僕は内向しているから、嫌われるタイプかな。この人のすべてが好きだ、といまのところ思える。世間に阿(おもね)るところがなく、うらやましい。言いたいことも書いている。作家だから、ことば豊富に、正確に、細かく書いてある。このような文章うらやましい。もっと早く読めばよかったのか。今が時期だろう。