集団の中で、を感じたい。


2016年4月1日(金)
 
第1段

・ 作業所では、一人でstamp押しをしなければとイキガッテいた。誰も助けてくれないと。昨日は、うんざりしたけれど無理やりやった。今日も一人で頑張らなければと悲壮感をもち、無理やり始めた。


 唯一無二が代わってあげようか、と言う。僕は今すぐ代わってほしかったけれど(最初からやる気はなかった)、唯一無二は別のことを始めていたので、今はやらないだろうと判断し言葉にせず、聞かなかった。


 そのまま僕はやりたくないのを無理やりに続けた。そのまま時間が過ぎ、終わるめどが見えてきた。唯一無二が代わってあげようかという。僕は今更だった。ここまで来たら、僕の目標である、1段目までやり通せる。代わってくれとは言わず、代わらなくてもいいと言った。僕は無理をしていた。心も殺伐・孤立だった。一人でやらなければと自分に言い聞かせていた。


 僕は目標までやり切り、終わった。僕はやめますと宣言した。唯一無二は、勝手にやめればと言った。

 ここまで書いて来て、悪いのは僕なのは明白になった。僕は無理する必要はなかった。適当なところで止めれば良かった。そして手伝ってもらえばよかった。一人で頑張らなければとイキガリ、孤立していると感じているのがよくなかった。




第2段

・ なぜこのことが分かるかと言うと、トイレ掃除のときに、僕は集団の中でやっている、みんなの集団の一員と言うのが感じられ、集団の中の一人と言うのが見えたからだ。ビジョンとして、感覚として、身体の体線として(気合いと言うか気配と言うか直感と言うか身体から出るエネルギーとして)。

 集団の中の一人と言うことは、帰りの交通機関でのこともだけれど、僕を否定する人は存在する、認める人も存在する、攻撃してきたい人も存在する、味方も存在する。集団には一定の立場の人が分布している。この分布を変えることはできない。ただ、そういう人たちに囲まれているというのを理解し、コミュニケーションを取ることだ。戦う場面も出て来る。軋轢もある。否定も攻撃もある。集団の中の分布として、いろいろな立場の人が存在する。その中を泳ぐ、環境を感じ、集団の中の一人をやっていく。

 環境が悪くなれば出ていくしかない。

防戦一方の時は抗う(あらがう)のみになる。誰がよいのでも悪いのでもなく、荘子のように天命によってできあがっている。何も責める必要はない。何も悪くない。天命によって配置され、環境は存在する。ただその中を泳いでいく。

 集団の中での人間活動にはいろいろある。