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反転攻勢(核心の、否定されている男とペニス) / 集団に加える、はどうだろう? /  自分に執着(記憶する技術・伊藤真 を読んでいて)

39:00 the end of asia

thousand knives のfull album を聞いていて、やはりこれはいいなと思った。

最後のエレキと、国歌斉唱みたなのものいいと思った。






追記


2016年3月20日(日)


 図書館への道すがら、集団に加えるというのは、集団が一枚のノートだとするなら、皆はノートに思い思いに書き加えていく。僕は、否定されたり邪魔されたりしたとしても、力ずくででも1行書き加えるイメージだろうと思った。



 図書館では、女に、女のノートをびりびり破られたりして否定された。怒った。壁に座っている女を、後ろから学習机から顔を上げて見つめた。最初は怒りの目線だった。けれど、通りかかるオヤジとかと目線を合わせていくうちに冷静になってきた。ふと思っていた。考えを巡らせていた。



・ 女のノートビリビには相当来た。効いてしまった。女の否定がすべて効いていた。ということは、僕は否定があるというか、ダメだが核心にあるということだ。女が否定してきている。ここで、最近ずっと交通機関で戦ってきた経験が生きてきて、跳躍した。


☆・ ペニスと男が否定されていると。僕はペニスと男が否定されているから、周りの否定が効いて、負けて、いつも防戦している。(そこまで思わなかったけれどこの文を作る段階でまとめた。現場では、ペニスと男が否定されているとだけ思った。)


 この段階ですべて出揃って、自分の否定を正面から取り上げ見据えてしまったので、それ以降効かなくなった。帰りの道では、否定されているペニスを押し出して歩き(パンツは履いていたぞ、気持ちの問題だ。勘違いしないように。)、否定させている男も押し出して歩こうとした。これで反転攻勢された。



 あとは、傷が開き切るのみ。傷口は開かれると思う。一度崩壊する予定。その後統合される。30歳の抑圧の時と同じ道をたどると思う。今のところ想像と予定というだけ。








2016年3月20日(日)


 朝、目が覚めて、伊藤真さんの本が印象に残っていたのだろう、「集団に加える」というのはどうだろう、と思い付いていた。


 僕は集団の中で孤立し、集団の中で、自分のやることを引っ張り出して、孤立の中に引っ張って作業するというイメージでやっている。


 それを、「集団の中に自分の作業を加える」という、逆の発想、加えてで、引っ張り出すのではなく、プラスしていくイメージ。引っ張り出すイメージではフラストレーションがたまる、孤立が深まるから。それを、集団に足していくイメージに切り替える。掛け声だけで終わるか、本当に効くかわからないけれど、思いついたので書いた。







2016年3月19日(土) 


・記憶する技術 伊藤真 サンマーク出版

第5章 記憶力が人生を変える

 ・どうやって、自分のネガティブな性格を変えていったのか?

 ・マイナスの記憶をプラスに変換する方法

 ・人は自分の力だけで生きているわけではない


 などの項目の文章が心の問題を扱っていて、僕の問題とかぶります。プラスに変換も、やり方を書いてあるわけではありません。




スキーマ療法入門 編著 伊藤絵美 星和出版

を途中まで読みかけだったのですが、最後まで読み切りたいと思うようになった。


・自分でできるスキーマ療法ワークブック book1, book2


の2冊が出ていた。book1をやろうと思う。アドラーと言っても、心の深い部分の発する言葉から目をそらすことはできない。マイナスの記憶はスキーマ療法でなんとかならないか、という気持ちだった。もっといい解決法があるのかもしれないが、いま思いつくのはそのくらいだ。2015年の本なので、実際にやってみるのにいいと思う。(新しい)

 根無し草のようにあっちにフラフラ、こっちにフラフラしていますが、相変わらずやっています。




・人は自分の力だけで生きているわけではない(伊藤真・記憶する技術)


 この項では、自分の力だけで何とかできるというのは傲慢だと指摘している。周りの人の力も借りて、環境の中で生活している。この主張は新鮮だった。僕には全く思いもよらない指摘だった。父も母も僕も、自力でやらなければいけないと硬直化し、意固地になっている。そうではないと。家族が間違っていると。
僕の考え方は父を真似ていて、まったく違っているらしいと指摘された。

 今日、hank-oshiで、僕が怒ってしまったのは、自分一人でやらなければいけない、ずっとやらなければいけないと、自分に執着したから。
そうではなく、みんなの中で作業し、他の人もいて、他の人も別なhaiko-oshiをやっていたのだから、みんなでやっていた。僕のは違う種類だったけれど、一人でやらなきゃに執着しすぎるのは、僕が曲がった考え方と感じ方の持ち主だからだ。

この部分はもっと掘り下げてみてもいい部分だ。