2016年2月17日(水)
Hong Kong, Michelle Shaprow
ラジオでかかった曲、この曲好きだったですよ。粘土をこねて(ものすごく下手だった)アップしていた時期に聞いていたのではなかったっけ。
「じぶん・この不思議な存在」鷲田清一、講談社現代新書、1996
(引用:p122~123:鷲田清一:~同じ理由で、やっと息子の家族と同居できることになったが、こころのどこかで、じぶんがいてもいなくてもこの家庭はなに一つ変わることはないだろうと感じながら生きている老母よりも、息子が犯罪をおかして刑務所に入り、住みなれた町にいられなくなって、「世間に申し訳が立たない」とひとりこっそり隠れて暮らす女性のほうが、あるいは幸福なのかもしれない。「この子の味方はわたしひとりしかいない」と感じられるのだから。つまり、たったひとりとはいえ、その他者にとって意味のある存在としてじぶんを経験することができるから。)
引用者:kurage0147130:この前後には影響をうけた。p124もいいことを書いているけれど、転載しない。本を読んでね。
この、人が他者から影響を受ける、他者を必要とする存在というイメージは、存在は孤立して屹立するものだという僕の自立観は間違っていることがわかった。でもうちの家族は、間違った人間観の持ち主だという気がする。
今回順番に繋いでいかないで、この本の現在読んでいるところまで飛ばして書いています。
作業所で、ドミノゲームをみんなはやっている。僕は参加していない。誘われても断ってきた。皆に交わるのが恐いし、皆に迷惑ではないのかな。いいのかな。本当は、逃げている。人間関係を逃げている。スタッフや女性がよそよそしいのは、僕が交わろうとしないからかなと思った。こういうのはマイナス点なのかなと。明日の次の(あさって)休み明けは、皆と交わり、ゲームに加えてよと言いたい気がした。
交通機関でも、集団に交わればいいのかなと思った。そういう体線が身体から出せるし、集団の一人として交わっていけそうな気がしている。時期が来たのかもしれない。