本:じぶん・この不思議な存在 02 (僕は子供だ)

2016年2月15日(月) 02


「じぶん・この不思議な存在」鷲田清一講談社現代新書、1996




p15
kurage0147130の要約: 私は誰という、自分探しの問いの立て方は間違っていないか、しかも自分の中を探すという。気が強い、積極的、勉強できる、そのようなものが自分という存在の土台なのか? 自分の意識とは関係なく生まれ、死んでいく自分という存在。


p18
kurage0147130の要約:自分に固有なものはあるのか?


p21
引用:パンセ、パスカル:~だれかをその美しさのゆえに愛している者は、その人を愛しているのだろうか。いな。なぜなら、その人を殺さずにその美しさを殺すであろう天然痘は、彼がもはやその人を愛さないようにするだろうからである。



p21~22
引用:パンセ、パスカル:~だから人は、決して人そのものを愛するのではなく、その性質だけを愛しているのである。~(パンセ 断章三二三、前田陽一訳)


(p24 引用:わたしはむしろ社会によってつくられた存在ではないのか。そう考えたほうが説得力があるように思えてくる。)

(p26~27:引用:<わたし>になるというのは、わたしたちが個人としてのさまざまな私的可能性を失って、社会の一般的な秩序のなかにじぶんをうまく挿入していくことにほかならないということになる。)


p30:意訳:子供は宇宙船の船長になったり、ターザンになったりする。でも子供用の椅子に腰かける時、子どもは子どものふりをする。ターザンや船長になるというエクスタシーを放棄して、大人目線の子どもに同化する。可能性を捨てて、枠の中に生きようとする。





引用者:kurage0147130:ここまで2度目を読んできて、人を認めるというのはどこを見て認めるというか。あの人が好きだというのはどこを見てか。自分に都合のいい部分しか見ていないし認めていないのではないのか。自分の利害にことごとく反する人格を認め肯定できるか? ぼくにはできない。僕は人を愛する資格はなく、エゴイスティックに人と接しているだけの気がする。この文を読んでそう思った。


 僕は20歳まで王さまだった。一人暮らしを始めてからエデンの園を追われ、人間になっていった。僕は追い詰められていた。親と暮らすとダメになるのがわかっていた。自分の存在をかけて親元を離れた。王様から人という奴隷に好んで役割を変え、同化させてきた。役割を全(まっと)うしようとしてきた。王様でいることは不健全だ。奴隷の身分でも、平民の人になる道の方が魅力に富んでいる。僕は可能性を捨て、チンケな人間を選んだ。与えられた役割を担(にな)おうと努力してきた。それが大人になるという健全な道だと思う。可能性を捨て、一つの道だけが残る。社会の要請に応える。



 私は誰という問いも、可能性を残そうとするのではなく( ぼくはまだ万能感を残そうとしている・悪あがきをしている )、ただ一つの道に枠の中に入っていく、枠を嵌めていくのが正解なのだろう。別の道を捨てる、潔(いさぎよ)さが大人なのだろう。そういう意味でいうと、


僕はまだ子供だ。


可能性を残しておきたい、リコーダー、勉強、手芸、これらは、一つの道として選ぼうというより、あれもできるこれもできるというごまかし、子どもへ逃げる道だ。だから僕は自分探しをしている子供なのだ。僕は頭が悪く、子どもな未熟者だ。一つの道を選び、社会の要請に応え、道を背負う・可能性を捨てる道を選ぶ、そういう必要がある。