+4 すごい人

追記


 今日は、radioheadのhail to the thiefを聞きながら布団にもぐりましたが、眠れず、首を伸ばしていました。

 首の山登り、3合目くらいだと思います。まだまだ伸びるなら、1合目かもしれませんが、自分でもその辺はあいまいでよくわかりません。前回の経験で言っています。




2015/10/27(Tue)


「すごい人」


 最近、作業所で楽に過ごせている。交通機関でも普通に過ごし、読書をできたりする。


 作業所に2か月くらい前に入った女性がすごい人だ。このすごい人の感想を書きます。

 作業所にいる男性で不器用な人がいる。病気で不器用なのか、もともとなのかわからない。その男性に、3週間くらい前にcardcase手縫いを教えてくれと言われた。僕はうまく教えられなかった。その時のその男性の感想は、不器用で手芸に向いていなくて、ダメだなあというもの。


 この男性に、すごい人が今日教えていた。その教え方がカルチャースクールの女性講師のように的確で、前向きで、建設的なものでその男性ができるようにまでしてしまった。


 このすごいレクチャーから学んだのは、よく言われるように、ダメな人はいない。ダメな人というのは周りがレッテルを貼るからで、その人がダメなのではない。ダメな人は存在しない。周りの扱いがダメな人という存在を作る。

僕のその男性に対する扱いは、僕の側が歪んでいて、教える能力がなかっただけの話だった。

すごい人にかかると、その男性は輝ける教えられる人になるのだった。その男性は、できる人で、スランプに入っているだけで、能力がないわけではないという理解に高められた。



 このことに影響を受けて、想像が広がった。僕は、ダメな人と思われるのを恐れ、自分自身に対してもダメな人というレッテルを貼るのを恐れている。これに向かい合うというのは、自分に対してダメな人と向かい合おうと言い続けるのではないということ。

僕の中に存在する人間像が歪んでいて、その歪みを正そうとすることが向かい合うことだということになる。




 僕の中に存在する人間像は父母がベースになっている。特に父。父の歪んだ見方、考え方、価値観で僕は一般的な人間像を作っている。それは違う。僕の中の人間像が間違っていて、その色眼鏡の人間像を僕が接する人間に投影している。だから僕にとって人間とは、父母の投影された影でしかない。

僕は他者というものが見えていない。他者と接するというのは、僕の中の父母の人間像と違うということを他者に見る時だ。他者が父母と違うということを経験することでしか、僕は自分と向き合えず、他者とも出会えない。そういう意味では、そのすごい人は、他者とは違うということを鮮烈に印象づけた。プラス思考の人という意味で。


 唯一無二の人も父母とは違う。僕の人間観から外れた、想像外の人だ。だから、僕の人間観は更新されている。


 僕の中の父母の人間像は、ユガミン(

・竹田伸也「マイナス思考と上手につきあう 認知療法トレーニング・ブック」、遠見書房

)で出来ている。この僕の中のユガミンを正すためには、僕が父母とは違う他者と出会うことだ。そういう機会を作業所に通うということで得られている。

 今日のすごい人の体験は、前進するための大事な栄養となったと思っている。僕は自分のユガミンを他者と出会う(父母とは違うという体験)ことによって更新することができると思う。